回心誌

世の中わがんね

伊勢田哲治『マンガで学ぶ動物倫理』

近所の図書館で動物倫理関係の書籍を探したんだけど、この一冊しか無かったです。


マンガで学ぶ動物倫理: わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか

マンガで学ぶ動物倫理: わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか


ヤングアダルトコーナーにあって、ずいぶん探し回ったあげく、結局職員に聞いて借りました。
割と今風なタッチのマンガにページ数が割かれています。主人公らが事件に遭遇し、動物と人間の関わり方を考えて行く、というストーリー。そのマンガの合間に、伊勢田先生によるものと思われる解説が挟まれます。

若干ラブコメちっくな描写がありつつ、解説もわかりやすくて面白かったです。答えを出すというより読者自身が考えることを促すつくりになっているのも好感が持てます。

ちなみに伊勢田先生といえば、応用哲学で有名な先生でございます。他に科学哲学のご著書を拝読したことがありますが、同じく応用哲学者の戸田山先生の弟子筋にあたる方、と言っていいと思います。戸田山先生には大学の頃、いくつか講義を教わったことがあり、今でも大変尊敬しております。


読んでみての感想は、動物倫理はやはり一筋縄ではいかない、というものです。

現在、人類が普通の生活の中で普通に行なっていることを正当化するのがいかに難しいかがよく分かりました。
トピックとしてあげられるものは、愛護動物と畜産動物、実験動物との違い、畜産や動物実験はどこまで許されるのか(そして、それはなぜか)という、動物倫理に少しでも興味のある人であればどこかで聞いたことのある内容になります。

ただ、それまでそうした問題に対して自分が漠然と持っていた解決策がいかに貧弱なものかが露呈してしまった、という感じでしょうか。


動物倫理、というものにそれほど興味のない方、もしくは、まだ深く学ばれていない方が持つ動物倫理の問題に対する回答は、概ね「人類は人類だから権利を持つのであって、動物に権利を与えるなんておかしい」とか、もしくは「そうしたことを議論するべきではない」とすら言う人もいるかもしれません。

こうした立場に対して、わかりやすく問題点を指摘しています。

ホモ・サピエンスだけが人権をもつ。それ以上の理由などない」とつっぱねる。
 これは多くの人が暗黙のうちにとっている立場かもしれません。法律も「ひと」と「もの」を峻別することでこの考え方にのっとっています。ただ、女性解放、黒人解放などの運動を大事だと思うなら、この考え方を認めるのはたいへん危険です。同じ理由で「男性(白人)だけが権利をもつ。理由などない」とつっぱねる道を開きかねないからです。マンガで出てきた、ヒトゲノムをもつかどうか、という基準も似たようなものです。


他にも、ありうる立場に対して、それぞれ問題点(たとえば、畜産を諦めなければならない、など)を指摘しており、どの立場に立っても現状のままではうまくいかないように思えてくるのです。


私自身の稚拙な思いつきとしては、「権利は自ら獲得しうる者とその血縁にのみ与えられる」というものです。
権利を自ら獲得する、というのは、状況に応じて闘争や主張を行い、自由になるために行動することを意味します。こうした行為には高度な言語能力や自発性が求められるため、(相当に高度な動物以外の)動物は排除され、一定の思考能力を持つ人間のみが残ります。
もう一つの「血縁」を条件としたのは、やや後付け的ではありますが、これによって思考能力のない人間にも権利が与えられることになります。なぜ血縁なのか、というと、それは血縁が「(人類を含めた)生物が最も自然に獲得する協調・協力の原動力」であるからです。ここで言う「協力・協調」は、人間でいうところの倫理的行為につながります。(人間を含めた)あらゆる生物が元から持っている性質として、血縁者を優先的に協力(倫理的行為)の対象とするため、獲得した権利を血縁者にも分け与えるのが自然なことに思えるわけです。

と、ここまで書いている途中、生物一般において「協力・協調」が必ずしも血縁同士の間で行われるわけではないことに気づきます。人間と家畜の関係もある意味では協力関係とも言えますし、花粉を運ぶ虫と植物の間など、人間以外の生物でも他種間の協力関係が存在します。
こうした協力関係を念頭に、権利の対象を拡張することはありうるかも、と思います。


続きはまたそのうち書くかもしれません。
もし、私の書いたようなことがすでに動物倫理学者によって議論されている、もしくは参考になりそうな議論がある、ということがありましたら、コメント欄等でおしらせくださいますと、大変嬉しゅうございます。


以上、読んでいただきありがとうございました。

【倫理】動物倫理について、今時点で思っていることのメモ

「その生物種が進化的に獲得した潜在能力を可能な範囲で引き出す」という規則が理にかなっていそうに、今の自分には思える。

この規則であれば、走ることが得意な動物は走れるような環境を用意してやるのが良い。泳ぐのが得意な動物は泳げるようにするのが良い。人類は運動能力に加えて知性、他者への思いやりを発揮できれば良い。

ただ、恣意的に基準を決めれるのではないか、という問題はある。

現状行われている非道徳的な動物実験や工業的な畜産は当然受け入れられにくいが、人類の知性の発揮との兼ね合いで場合によって容認可能であるという論理もありうる。



倫理的行為を実行できる倫理的行為者になりうるのは人間のみであって、動物は倫理的行為者になりえない、というところに、この、避けがたい恣意性のポイントがあるように思える。
要するに、人間だけが一方的に決めることができるのだから、恣意的にならざるを得ない。

「有感」などという一見恣意性のない客観的な線引きも、恣意的にならざるを得ないからこそ、こういったやり方になっているように思う。
しかし、どう線を引こうと恣意的であることは避けられないのではないか。