回心誌

日々是回心

【読書】スティーブン・P・ヒンショー『恥の烙印』

恥の烙印―精神的疾病へのスティグマと変化への道標

恥の烙印―精神的疾病へのスティグマと変化への道標

精神障害を抱える当事者やその家族につきまとうスティグマが、なぜ生じるのか、また、それによってどのような問題が生まれるか、どうすれば低減することができるのか、という重大な問題を考察する本である。考察は社会心理学臨床医学などのエビデンスを基にした議論がなされるが、そもそも「人間らしく」生きるとはどういうことか、という実存的な問題意識も浮かんでくる。

筆者自身、父親が精神障害を患っており、そうした体験がこの本を書く動機の一つになっているのだろう。時には自分自身のものも含め、体験談(あるいは「物語(ナラティヴ)」)を通して読者の感情にも揺さぶりをかける。

文明化そのものの意味について問い直すような議論もあり刺激的だが、全体として筆者自身の確固とした希望や信念をもって書かれており、敬意を覚える。いい本に出会えたと素直に思う。

知的障害、精神障害発達障害など、様々な精神に関わる疾病には、その病そのものとしての辛さ、そしてその周囲の人たちには介助する苦労があるが、それ以上に社会がそうした人たちに向ける視線に痛みを感じてしまうものだと思う。この本は、それに立ち向かう手段を与えてくれると思う。


なぜスティグマを低減するべきなのか

歴史的に、精神的疾病には様々な形でスティグマがつきまとってきた。中世の魔女狩り、優生思想による迫害、強制断種。

なお、主にアメリカの状況を議論している本書には書かれていないが、精神的疾病を抱えた人に対する強制不妊手術は日本でも戦後から平成初期にかけて行われていた。
障害者の強制不妊手術:審査経緯明らかに 検診録など発見 - 毎日新聞

そうした苛烈なものだけでなく、例えば精神的疾病を患っていたことを示唆すると、不動産会社が空き部屋を紹介してくれなくなる、といったことも実験で明らかになっているし、職場で不当な扱いを受けたり、人間関係が悪化していくことが紹介されている。

精神的疾病を持つ人へのスティグマが悲惨なのは、そうしたスティグマによって社会との繋がりが希薄になり、ますます病を悪化させてしまう、というスパイラルがあるためだ。精神的疾病の患者がスティグマを回避するために、もっとも採用される戦術は、その履歴を隠すことである。そして、社会から距離を取ることである。しかし、こうした隠せるスティグマを抱えることは、自尊心の低下や苦悩を抱えることにもなる。

社会全体としても、「精神的疾病は治らない」という悲観的なステレオタイプが強くなれば、ますます精神的疾病が治りにくくなってしまう(一種の自己成就予言)。皮肉なことに、一般市民が持つ精神的疾病への知識は以前より豊富になっているにも関わらず、スティグマそのものは悪化していることを示す悲観的なデータがある。また、最先端の医療を受けられる先進諸国より、アフリカやアジアの非工業国のほうが重い精神的疾病から立ち直りやすいというデータもある。

重要なのは、スティグマそのものが人類に害を与えており、それは我々次第でなくすことができる、という点だ。


精神的疾病とは何か

本の序盤で「精神的疾病とは何か」という定義の議論もされており、興味深かった点を引用したい。いくつかの定義が紹介され、いずれも逸脱行為と生活における障害に軸を置いたものが多い。一方で、進化的に獲得した「自然な形質」かどうかに着目した定義もある。

その行動パターンが精神障害に該当するためには、進化論的な意味の機能不全でもなければならない。つまり、自然選択された心的機制に異常があり、意図されたように(自然選択されたように)機能していないということである。(中略)このモデルで重要なのは、ある行動パターンが心的機制の機能不全を表していない限り、精神障害は存在しないという主張である。

ただし、そもそも何が進化的に獲得された形質なのか、現段階で分かっていることは少ない。また、進化的に自然に獲得されたものだとしても、現代の環境に合わないことはありうるが、そのことで当人がいかに困難を感じていたとしても治療の対象ではないのだろうか。


精神的疾病は「脳疾患」か

近年、精神的疾病の原因を遺伝的、または生物学的な原因にのみ帰することで、精神障害の患者や家族から責任を免除しようという動きがあるという。彼らが精神的疾病を患ったのは、本人の怠けや親の教育によるものではなく、仕方がなかったのだと考えるべきだというものだ。これは、本人や家族を責任から解放する効果があるかもしれない。しかし、筆者はこの考え方に賛成はしていない。精神的疾病の原因を、遺伝的な要因にのみ帰すると、かえってスティグマが強まる場合があると考えられるためである。

 それを強く示唆する衝撃的な実験が引用されている。生物学的な問題を原因とする場合は、育てられ方や子どもの頃に起きたことを原因とする場合と比べ、非難は弱まるが、残酷な反応(電気ショックによる罰)が強まることが示されたのである。

実験的研究によって 意外な結果が判明している。メータ(Mehta)とファリーナ(Farina)は、大学生の研究参加者に実験場のパートナーとペアを組ませた。そのパートナーは「神経衰弱」になって精神科病院で治療を受けたことがあると打ち明けた。操作された変数は、神経衰弱の原因である。パートナーが書いたという文面には、次のいずれかの原因が挙げられていた。(a)疾患または医学モデル––文面には「それはほかの病気と同じようなものであって、私の生化学的状態に影響を及ぼした」と書かれ、治療法として薬物療法を受けたことが記されていた。(b)心理社会的モデル––文面には、問題の行動が「私の育てられ方と、子どもの頃に起きたさまざまなこと」に関係があると書かれ、対話による心理療法を受けたと記されていた。
 予想通り、心理社会的モデルより、医学、疾患モデルの条件のほうが、参加者がパートナーに示す非難は弱かった。逸脱の原因をコントロール不能な要因(生物学的要因)に帰することで、非難を軽減できるという主張が支持されたわけである。しかし、この研究で調査したのは、表明された態度だけではなかった。参加者とパートナーの社会的接触も調査したのである。この目的のため、参加者には、「パートナーが課題遂行中にミスをしたら電気ショックで罰を与えてよい」という指示が出された。結果は驚くべきものだった。パートナーから生物学的な原因を知らされた参加者の方が、心理社会的な原因を知らされた参加者より強いショックを与えたのである。生物学的な原因帰属は、非難の表明を減少させた反面、懲罰的な接触を増加させたわけである。
 追加的研究でも、生物学的な原因帰属––特に、精神障害の遺伝的基盤を強調した場合––は残酷な反応と結びつきうることがわかっている。

 また、生物医学的、遺伝学的な原因帰属について、次のようにも書かれている。

また、この考え方は、当事者が遺伝的に劣っていて、欠陥を持っているという信念さえ生みかねない。その状態の原因がもっぱら異常な遺伝子だと考えられた場合、当事者は他の全ての人間と質的に異なり、人間以下の見知らぬ部族または異邦人のようなものだと認識される可能性がある。そうなれば、部族のスティグマに関連した、きわめて過酷で搾取的な反応さえ示される恐れがある。

 では、当事者や家族への非難と、(憐れみを含めた)人間以下の存在とみなすことのどちらかの選択肢しかないのだろうか? もしくはトレードオフの関係にあるのだろうか? 筆者は次のように書いている。

肯定的な反応を生じさせるためには、次の二つの考え方が肝要であるように思われる。一つめは、精神障害を形成するのは潜在的な精神生物学的リスクだが、このリスクは生活上の辛い出来事への反応によって喚起され、家族と環境によって決定される(じかに引き起こされるわけではない)という考え方である。つまり、精神的疾病には生物学的な原因があるが、症状のあり方を決める上で、個人的、社会的要因はやはり必要なのである。二つめは、重い精神的疾病には生物学的なリスクはもちろん、遺伝的なリスクさえあるが、それでも当事者と家族の努力は最終的な転帰を左右し、有益な変化をもたらす上できわめて重要だという考え方である。つまり、精神的疾病の原因について当事者と家族を非難することは避けるべきだが、治療を受けることに対する当事者と家族の責任は決定的に重要なのである。現代では、複雑な問いに一言で簡潔に応えることが求められるため、このようなメッセージは伝えにくいかもしれない。

 重要なのは、精神的疾病を患ってしまったことを非難するのではなく、治療に向けて前向きに促すことだとしている。

現代文明と精神的疾病

現代文明は概ね、自由で科学的な価値観が拡大していった。にもかかわらず、重い精神障害へのスティグマは強まっているという研究結果があるという。このことをどう理解するべきだろうか。

 第一に、都市化化が進むと、逸脱の示される場面がより多くの人の目につくようになる。現在、近代化して人口の密集した都市環境が、世界中に増えている。それと並行して、多くの国では、精神科の病院や施設の閉鎖を強行する政策がとられた。そのため、より多くの一般市民が、重い精神的疾病を抱えた人をかつてないほど見かけるようになった。要するに、単に精神障害と接する機会を増やしたという理由から、欧米かと都市化が、寛容さの低下およびスティグマの強まりと関係しているかもしれないのである。
 第二に、多くの社会では教育レベルが上がるとともに、仕事のハイテク化によって高度なスキルが必要になった。そうなると、素朴な地方文化と比べて、精神障害に付随しがちな学業の挫折と失業が目立ちやすくなるうえに、大きな損失を生むことになる。言い換えると、現代社会で学力や職業能力の重要度が高まったからこそ、精神的疾病のような社会的上昇を阻む要因が、より強いスティグマを受けかねないのである。
 第三に、中産階級が大幅に拡大すると、行動の標準化傾向が現れる可能性がある。中産階級の価値観では、周囲と同じ行動や礼儀正しい振る舞いが重視されがちである。そのため、テクノロジーの進んだ文化では、周囲と異なる行動は逸脱度が激しいように感じられ、大きな不安を抱かせるかもしれない。
 第四に、現代では、特に先進工業国でマスメディアに接する人の数が増えている。そしてマスメディアは、精神的疾病を抱えた人に対する極端にステレオタイプ化された見方を盛んにあおっている。電子メディアが広範な文化的影響力をもっている文化には、ステレオタイプ化された精神的疾病のイメージをまき散らす経路が多数ある。このようなイメージがスティグマに関して大きな役割を果たすように思われる。
 結局、工業化社会では、高度なテクノロジーや画一的な行動が重んじられるとともに、マスメディアが支配的な世界観とステレオタイプを描写する。これらの要因がみな、スティグマ付与の低減ではなく、強化に関係している可能性がある。そのうえ、重い精神的疾病と暴力の関係性が誇張されることで—メディアだけでなく、強制入院の主な基準を「危険性」と定めている民事収容の規定も、このイメージを広めている—強いスティグマが生じる。欧米化が進み、教育の重要度が増し、ハイテク化していく世界では、おそらくスティグマ付与と戦うことは途方もなく困難だろう。

将来像についても述べている。

これから100年後、そしてもっと先には、精神的疾病に対してどのような考え方が生まれているだろうか? その頃には、遺伝学、発達精神病理学文化心理学が格段に進歩していて、何が病気で何が正常かという現在の考え方は古いとみなされているかもしれない。それは、100年前の考え方が現代の私たちにとって古く感じられるのと同じである。たとえば、現在、逸脱行動または病的な行動と言われている多くの行動の適応的な意義が、将来、大きな注目を浴びている可能性もある。ある程度の精神障害の発症リスクが人間社会にもたらす利益も、社会や人類に多様性を与えるという意味で高く評価されているかもしれない。たとえば、双極性障害を抱える人の血縁者が、芸術、科学、経済の分野で成功する確率がきわめて高いことは、現在でも知られている。また、回復力の研究が進めば、精神的疾病の発症リスクのある人を特定した上で、基本的な性質や独特な貢献を果たす可能性はそのままに、悪い転帰の可能性を大幅に減らす予防的経験を提供できるようになるかもしれない。
 しかし、これは紛れもなく楽観的な考え方である。もっと現実味があるのは、分子遺伝学の技術がさらに発達して、将来の新生児学者と臨床家が、胎児や乳児の様々な精神的疾病の発症リスクを大まかに判定できるようになるという見通しである。精神障害はなんとしてでも避けるべきだという考え方の多さを考えると、発症リスクが言い渡されれば、ステレオタイプ化や病気扱いが行われるだろう。その結果、堕胎や、子どもへの強制的な薬物療法を含む早期介入が激増するかもしれない。自分の(あるいは子どもの)遺伝的リスクを知りつつ、なんの予防策も採らなかった人は、激しい非難を浴びるだろう。
 社会には強力な遺伝子決定論や遺伝子エリート主義がはびこり、汚れているとみなされる遺伝子を持った下層「階級」は過酷な差別を受けるかもしれない。一方、精神的疾病を抱えていない「エリート」は、狭まりつつある正常性の概念を自分たちが守るのだと考え、遺伝子プールを荒らさないよう優生学的な手段を取る必要性を感じるだろう。結局、好ましくない遺伝子を取り除けるにもかかわらず、あえてそうしない家族は、猛烈な批判を受けかねないのである。人類を浄化し向上させるため、新たな優生学が生まれるかもしれず、その取り組みにおける「落伍者」はさらに強いスティグマを負う恐れがある。
 究極の問題は、将来の科学者、臨床か、政策立案者、市民が、精神的疾病を抱えた人の人間としての可能性をどのように考えるかということだろう。あらゆる手を尽くして発症を未然に防ごうと考えるか? それとも、早期発見によって予防的ケアをしようとはするが、精神障害を抱えていても有意義な貢献はできるだろうし、遺伝子プールを縮小しすぎれば人類の多様性を弱めてしまうはずだと考えるか? これほど重要な倫理的、臨床的、科学的な問いは、他に考えにくい。

この筆者の予測は悲観的だが、重要な論点だと思う。あるべき人類の「精神」のあり方とはどのようなものか、精神疾病を含めた多様性とどのように付き合うべきか、という問題にも関わってくると思う。「神経多様性」という概念にも触れておいたほうがよさそうだ。神経多様性とは、各人の脳の差異や多様性そのものが善であるとする考え方であり、急進的な考え方ではその際を根本的に受容すべきであり、治療すべきではないとするものもある。

そもそも精神的疾病を治療すべきかどうか、という議論は実は政治性を帯びている。

問題は、スティグマ低減の取り組みの一環として、精神障害を抱えた当事者が治療を受け、行動や症状を意識的に変える努力をすべきかどうかということである。私の答えは、紛れもなく「イエス」である。しかし、その前に、重要な疑問を提起しなければならない。このような態度は、「人種的少数派集団に属する人は、スティグマ付与を避けるために、多数派に合わせて肌の色を変えるべきだ」とか、「同性愛者は異性愛者になるために介入を受けなければならない」などという主張と同じ類のものなのか? そのように考えると、「スティグマを受けている人は、激しい非難や偏見を防ぐために、自分自身を変えるか、内集団と同じようにならなければならない」と提言することの危うさが浮き彫りになる。

筆者は、重い機能不全を治療することで当事者の苦しみを和らげることができるのだから、治療を行うべきだという考えを述べている。

この辺りのバランスの良さはさすがと思う。

森友事件についての整理。

分かっている情報から、おそらくこうだ、というストーリーを考察してみました。

まだまだ分からないことが多いのですが。



今回の事件、発端となったのは土地の売却価格が非公表だったことです。

なぜ非公表にしたのか、ということから考えていきます。


まず、財務省(佐川理財局長)は国会で「先方(学園)から『(地下ごみの存在が知られれば)生徒を集めることに風評被害が出るので公開を控えてほしい』と要請があった」と答弁しています。
これに対し、「(地下ごみの)撤去を前提に売却価格が値引きされて撤去するわけだから、風評も何もないではないか」と問われると、「地下埋設物の存在が周知されることだけでも、保護者にとってはどういうものがあったのか、懸念を生じさせるものだろうと思う」と答えています。

安倍昭恵首相夫人と籠池理事長(当時)の妻・諄子氏のメールの2017年2月21日のやり取りで、このようなものがあります*1

安倍昭恵「なぜ売却価格を非公開にしてしまったのですか。やはり怪しまれるようなことはしない方がよかったのかなあとは思います。祈ります。」
籠池諄子「公開しなかったのは、土壌汚染や廃棄物のある土地で開校しようとしていると、悪評をたてられたら困るのでしませんでした。」

ここで諄子氏が嘘をついている可能性もありますが、昭恵夫人に伝えているように、学園側の事情として風評被害を避けるために非公表とした、ということは十分ありうるように思います。


とはいえ、価格を非公表とすることは一般的ではありません。会計検査院の報告書では、手続き上の過誤によって取引自体を非公表としていた事例が104件中5件あったものの、価格を非公表とした事例はこの例を除いて存在しないと指摘があります。*2


もう一つの可能性として、近畿財務局側の事情として、あまりに売却額を安くしたために、公表が憚られたということも考えられそうです。

財務局は3mより上の部分のごみ撤去費用として国が立て替えた1億3000万円ギリギリまで価格を下げています。
この額を下回ると、国は売却によって収支がマイナスになってしまうわけですが、それより少し高い1億3400万円で売却しています。

この売却価格が決まるまでの経緯は疑惑だらけです。

最終的に売却されるのは2016年6月20日ですが、3月30日に森友学園と近畿財務局が行なった協議のやりとりが音声データとして報道されています。*3
この3月30日のやりとりは、財務省側も認めているものです。*4

【工事業者とみられる人物】
「3mより下から(ゴミが)出てきたかどうかは分からないですと伝えている」

【学園の代理人弁護士】
「そこは言葉遊びかもしれないですけど」

【工事業者とみられる人物】
「そのへんをうまくコントロールしてもらえるんでしたら」

【池田統括官】「ご協議させていただけるなら、そういう方向でお話し合いをさせていただければ」

【国側の職員とみられる人物】「言い方としては“混在”と、“9mまでの範囲”で」

このやり取りは、国が実際にはない3m以深のゴミを仮定するよう口裏合わせをしているようにみえますが、財務省は「口裏合わせではない」としています。

このやりとりがあった3月30日に、近畿財務局は、地下ゴミの撤去費用の見積もりを大阪航空局に依頼しています。撤去費用の見積もりを民間業者でなく国に依頼するのは異例なことだそうです。*5

さらにそれに先立つ3月16日付の音声データでは、以下のやりとりが録音されています。*6

設計事務所担当者「主には埋め戻したところの残りではないか」

籠池夫妻    「産廃やないの。なんでこんなことするの」

国側      「残りだとは認識していない。後から出てきた場合は(国の)瑕疵になる」

設計事務所担当者「発生源の特定はわからないが、新たな地中障害として処理するしかない、と」

国側      「そうです」

実際には「埋め戻しのゴミ」であることが疑われるにも関わらず、国側は「新たなゴミである」という解釈を譲ろうしません。

このやり取りの中で、籠池夫妻は「埋め戻し」について「なんでこんなことするの」と国側を問いただしています。


「埋め戻し」と言えば、森友学園の事件が発覚した直後、ゴミが埋め戻されているのではないかという疑惑が持ち上がり、籠池氏は「仮置き」であるなどとして反論していました。*7

このやり取りが行われた2月下旬の段階ではまだ、学園は小学校設置認可を取り下げていませんでした。籠池氏が必死に疑惑を払拭しようとしていたのだろうと思われます。


さて、「埋め戻し」疑惑が事実であるなら、なぜそのことを籠池夫妻が国側に問いただすのでしょうか。

その重大なヒントが、2015年9月4日にあります。
この前後を含めた3日間はいわゆる疑惑の3日間と呼ばれています。

2015年9月3日に安倍首相が迫田理財局長(当時)と面会し、翌9月4日には安倍昭恵首相夫人が大阪府・私学審議会会長の梶田叡一のイベントに同席。さらに同日、建設予定の小学校校舎が、補助金付きのプロジェクトに採択されています。翌日には安倍昭恵夫人が森友学園の幼稚園で講演し、小学校の名誉校長への就任が発表されます(安倍首相は、その場の雰囲気で断りきれなかっただけだ、としています)。

これらの出来事自体は単なる偶然と捉えることはできます。重要なのはその最中の9月4日、近畿財務局内会議室にて、森友学園の小学校建設を請け負った設計会社所長、建設会社所長が、近畿財務局の統括管理官、大阪航空局調査係と会合を持ちます。

この中で、驚くべきことに、国側が埋め戻し(「場内処分」)を提案していることを、参加していた業者が証言しています。*8

業者側が「産廃は仕分け処分費が高く、撤去すると膨大な金額になる。工事を進めてよいか」と相談。
財務局側が「上層部への説明がつかない」などと難色を示すと、
業者側は「それなら場外に出さない方法を考えるしかない」と反発。
財務局側は「場外処分を極力減らす方法を考えて」「借り主との紛争も避けたいので、場内処分の方向で協力お願いします」と求めたとされる。

この会合には籠池夫妻は同席しておらず、半年後の2016年3月11日になってようやく籠池氏がその事実を知った、ということも業者が証言しています。

この証言については音声データがなく、裏付けは打ち合わせ記録のみとなっています。また、国側も埋め戻しを提案をしたことを否定しています。


しかし、3月16日付の音声データで籠池氏が埋め戻しについて「なんでこんなことするの」と憤慨していたまさにその理由が、実は国が業者に埋め戻しを提案していたのだとすると、辻褄が合います。

3月15日には、籠池氏が霞が関財務省本省まで出向き、理財局の室長と面会しています。この際に、埋め戻したゴミについて直訴したのではないでしょうか。



ここまでの流れを振り返ると、次のようになります。

2015年9月4日 国がゴミの「場内処分」(埋め戻し)を提案
2016年3月11日 籠池理事長が埋め戻しを認識。財務局に連絡。
2016年3月15日 籠池理事長が霞が関財務省本省を訪問。理財局・国有財産審理室長と面会。
2016年3月16日 「埋め戻したゴミではないか」「なんでこんなことするの」と森友側から詰め寄られるが、国は「新たなゴミ」と強弁。
2016年3月30日 「9.9mまでの範囲で」ゴミが「混在」している、という「ストーリー」で値下げすることを合意。
         近畿財務局が大阪航空局に撤去費用見積もりを依頼。(民間業者でなく国に依頼するのは異例)
2016年4月14日 大阪航空局が見積額概算額を報告。


このように見ると、そもそもは「埋め戻しの提案」という国の重大な瑕疵があり、そこを突っ込まれたがために値下げに応じざるを得なかった、ということが考えられます。

明確な違法行為を誘導したことになるため、財務省としても隠し通すしかなく、今日まであらゆる情報公開に消極的な態度をとり、文書の改ざんまでして追及をかわし続けてきたのだと考えられます。


しかし、それではなぜ、埋め戻しの提案などしたのでしょうか。

産経新聞によると、埋め戻しを提案したやりとりの中で財務省は次のように述べていたそうです。*9

さらに財務局は「建築に支障ある産廃および汚染土は瑕疵にあたるため、(国に)処分費用負担義務が生じるが、それ以外の産廃残土処分(の価格)が通常の10倍では到底予算はつかない」と指摘。「借り主との紛争も避けたいので、場内処分の方向で協力お願いします」と述べていた。


通常の10倍とはどういうことでしょうか。業者は処分にかかる費用は9億6000万円だとしていますが、これは妥当な金額なのでしょうか。*10

また、紛争(おそらく損害賠償でしょう)を避けたいのは分かりますが、だからといって違法行為を提案するのは異常としか言いようがありません。なぜそこまで紛争を避けようとしたのでしょうか。

そもそも紛争を避けたいのであれば、初期の段階から交渉を打ち切ってしまえばよかったのではないでしょうか。

2015年4月付の近畿財務局内で、交渉担当者が法律担当者に相談した内容が公表されています。*11
それによると、法律担当者は「学園との交渉が長期化すると損害賠償を請求される可能性がある」と指摘し、さらに「契約条件が整わない場合に相手の要請を受諾する義務はない」とも述べています。
当然といえば当然の意見です。

最近明らかになった改ざん前文書などからも、複数の議員秘書を介して「貸付料が高すぎるためなんとかならないか」など財務省に問い合わせさせていたことが明らかになっています。
とても財政的に余裕があるようには思えません。そのことは近畿財務局も承知していたはずです。

にも関わらず、交渉担当者は法律相談の中で「学校の16年4月開校への協力姿勢は堅持したい」と意欲的です。


このように、森友学園への土地売却に執着していたのはなぜなのでしょうか。



他にも、10年年賦払いによる延納特約に至る経緯も分かっていません。
また、なぜ文書改ざんに手を染めてしまったのか、特に政治家が関係する部分を削除した理由も分かりませんし、政府与党が調査にあからさまに消極的な理由もよく分かりません。


真相解明に向けて、少しでも情報が明らかになることを望みます。