キャッチコピーは「山さん、怒りの再出馬」。
前作の『選挙』に続いて、想田和弘監督が山内和彦の市議会選挙戦を追うドキュメンタリー映画の第2弾ですね。
以下ネタバレありの感想
実は、山さんが落ちることは観る前にWikipediaで観て知ってたんですよね……。もちろんWikipediaが悪いというつもりは無いです。Wikipediaはそういう場所ですので。
作中、山さんが何度か、これで落ちたらただのあほ、みたいなことを言ったり、冗談で「(選挙結果が)1票だけだったりして」とか言って予防線張ったりしてて、結局落ちるわけですが,最後の選挙結果を見て悲しいようなガッカリするような気持ちになりました。知っててもこれはガックリくる.仲良さげな民主党候補者に、これで受かったら選挙を変えるよね、なんて言われたりして、確かにもし受かってたら本当にかっこ良かったのになあ。
他の候補者は、街頭演説したり、握手を求めたり、名前を連呼したり……泥臭い選挙戦を戦っているのに、山さんと来たら……。
僕は、しかし、それでも山さんを嫌いになれないし、応援したくなってしまう。だからこそ、選挙結果を観て、知ってはいたけど、それでも心の底から落ち込んでしまったのでしょう。
誰かの言葉に耳を傾けて、受かったら本当に自分のことのように嬉しいし、落ちてしまったらガックリとうなだれるような気分になる。選挙って本来そういうものなんじゃないか? ただなんとなく投票して、その結果どんな政策が行われたのかもよく分からない。そんなのは選挙と呼べるのか? っていうような監督の熱い想いが伝わってきた気がします(僕の勝手な解釈です)。
作中、笑えるシーンもたくさんあったし、十分に楽しめたんだけど、もしかしたらドキュメンタリー映画としては評価されないかもなあ、とも思います。まあ、言ってみれば予防線なんですが。
本人がどこかで語っていたように、前作と比べて明らかに想田監督自身の存在が映り込んでいるし、何より監督自身の政治的な意志が感じられるのです。もちろん、前作にも政治的な意図が無いわけがないんですが、もはやごまかしが効かないかもな、と思ったのです。
ごまかしといのも失礼な言い方かもしれませんが、例えば学校の授業で『選挙』を見せるのはありな気がしますが、『選挙2』は使いにくいだろうな、と思ったのです。僕個人としては、どちらも政治的に必ずしも中立ではないが、政治について学ぶためにそれに勝る価値があると思っています。しかし、誰かを説得するとなると、やりにくいだろうな、ということなのです。
今後、海外の映画祭などに出品するのでしょうか? 前作に比べると、海外では評価されにくいのではないかと思うのです。前作と比べて得られる何かが具体的になったと思います。そして、それは日本固有の、海外の人に説明できないような何かなんじゃないかと思うわけなのです。
もちろん僕は映画素人なので、どうなるか分かりませんが、今後も想田監督の動向を見守っていきたいと思います。
それにしても、ある候補者が選挙活動を撮っちゃいけないとか言い出すのは面白かったです。
2013-07-22 追記
http://miyearnzzlabo.com/archives/15751
宇田丸のやつ、書き起こしてる人がいた。Podcastは↓!
7/6 サタデーナイトラボ「映画『選挙2』観察ラジオfeat.想田監督」【前編】をポッドキャストで聴く!
7/6 サタデーナイトラボ「映画『選挙2』観察ラジオfeat.想田監督」【後編】をポッドキャストで聴く!
放送業界が選挙期間中に政治的な話題を避けることについて話されている。暗黙の了解や忖度というと、森達也『放送禁止歌』で暴露されたタブーの構造そのものだ。何かのきっかけでできたルールが一人歩きし、なぜそのルールがあるのか、誰も分からないのに、皆に合わせて従ってしまう。「ルールはルール」だから、と平気で言う人がいるが、その恐ろしさを自覚しなければならない。
選挙って公的なもののはずなのに撮影できないのは変、と想田監督が山さんに愚痴っていたとき、山さんがぽろっと「○○さん(候補者の一人)にとっては私的なんでしょ」みたいなことを言うんだけど、これがまた突き刺ささる。
想田監督はその候補者側の弁護士から通知書をもらったらしい。そのことは映画内では明かされないが、このPodcastを含め色んなところで暴露している。
「参与観察」は社会科学や文化人類学の用語ですね。
「皆『選挙』を知っている」。うんうん。再帰的だ。複雑系だ。僕個人的に、自分の撮った作品が自分自身に影響を与え、さらに自分の作品に影響を与えるという感じはすごい好き。これは『僕の小規模な生活』で福満が「これって何か変じゃない?」ってなっちゃうの感じにも通じる。
子どもが何かと戦ってるっての、なんか不覚にも感動。
「恐るべき無関心」をどう映像化するか。
『選挙』も『選挙2』もコスプレ。
議論こそが民主主義の生命線であるはずなのに、我々はそれを疎かにしているのではないか。
- 作者: キャスサンスティーン,Cass Sunstein,石川幸憲
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2003/11/01
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キャス・サンスティーンというアメリカの憲法学者が『インターネットは民主主義の敵か』の中で繰り返し説いていることなんだけど、市民の言論の自由は消費の自由ではなく民主主義に寄与するための自由であるべきだ、と。これは日本国憲法第12条の「国民の不断の努力」にもつながると思うんだけど、要するに国民は政府を監視し、議論し、民主主義を守っていかなければならないということだ。
これも『インターネットは民主主義の敵か』からの引用だけど、アメリカ最高裁判事だったルイス・ブランダイスは「自由の最大の敵は消極的な国民である。公開議論は政治的義務である」として、誰かにとって少々不快になるとしても、オープンな政治的議論は擁護されるべきだとした。また、アメリカ最高裁は、ショッピングモール—そこは言論の場にもなるが—を表現活動にもオープンすべきだ、との立場を明確にしているそうだ(→ Pruneyard Shopping Center v. Robins, 447 US 74 (1980))。