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回心誌

世の中わがんね

ドイツの戦後補償、罪と責任

社会 歴史

上のウェブページは「ドイツ 戦後補償」などのグーグル検索で上位に来るのだが、疑問が浮かぶ。

       ドイツは旧西独時代以来、ユダヤ人虐殺などへの個人補償
      だけでも、円換算で総額約6兆円を支払ってきている。日本
      がアジア諸国に払った賠償・準賠償はざっと6千億円[1]

   この朝日新聞の挙げる数字は、ドイツは誠実に戦後補償に取り
  組んでいるのに、日本は逃げている、誠実に謝罪し、賠償しない
  から、いつまでもアジア諸国から信頼されないのだ、という主張
  の根拠とされている。
  
   これに対する反論をまとめれば、次のようになろう。
  
  ・ ユダヤ人600万人虐殺などというような犯罪を、日本は犯
     していないから、補償金額の多寡を比較すること自体、無意
     味だ。
     
  ・ ドイツはユダヤ人虐殺以外の戦時賠償をまだ完了しておらず、
     まだこれからの段階。日本は北朝鮮以外のすべての関係国と
     講和条約、平和条約を結び、正式に国家賠償が完了している。

   どちらの主張が正しいのか、読者自身で考えていただくために、
  以下のような基本的な事実を紹介したい。

随分おおざっぱな議論に思える。

そもそも、朝日新聞の数字を使って、罪や責任の多寡を度外視して「同じ戦犯国なのだから同じだけ払うべき。日本はドイツに比べて賠償・補償額が少なすぎる」とする主張があるとすれば、まずその主張がおおざっぱだ。

なお、「反論」に反応するとすれば、どちらも正しいと思う。

まず、比較に意味がないという主張であるが、全く性質が違う罪についての比較は、高度に抽象化する必要があるか、不可能だ。ドイツに支払えたのだから日本にも十分な支払い能力があるだろう、という使い方は参考としては可能かもしれないが、重要な論点ではないと思う。

二つ目の、ドイツは国家賠償を行っていないが日本は北朝鮮を除いて全ての国と国家賠償を完了した、というのは事実である。少なくとも私の知識では正しい。

だが、その二つが正しいとしても、「日本は補償を行うべき」という議論の本質的な反論にはなっていない、というのが私の意見だ。

 

 

ここで、戦後補償に関して専門家の議論を紹介する。

清水は、第二次世界大戦以降、犠牲者個人に対する補償金の支払いが行われていることに着目し、ドイツの個人補償の三つの方式(国内法、国際協定、民間企業)とアメリカ、カナダにおける日系人強制収容に対する補償を挙げ、翻って日本ではこのような犠牲者個人に対する救済が不十分であることを指摘する。

特にドイツの民間企業は、法的な義務はないにせよ、「ただ人道上の措置ないし歴史的責任の問題として」補償を行った。 

さらに、国家間賠償と個人賠償を分けて考えるべきだとし、「完全かつ最終的に解決された」としても、個人補償を行うことは可能だとしている。

また、「サンフランシスコ条約においては賠償問題の具体的取り決めが日本と当該国との二国間協定に委ねられており、日本にとってはるかに有利なものとなったことは否め」ず、これにより戦後補償問題が深刻化した側面もあることを指摘している。

 

ヴァイツゼッカー大統領の演説について。

    ワイツゼッカーの演説の「罪のある者もない者も」という部分
    を見落とすべきではない。「罪」と「責任」を厳密に区別して
    いる。この違いについて、ワイツゼッカーは、朝日新聞の記者
    とのインタビューで次のように答えている。

     人は自分に罪がないことにも、責任をとることができる。
        例えば、私の自動車を他人が運転して事故を起こしても、
        私は賠償責任を負う。[2,p326]
        
     この区別と、次の言葉をあわせて、ようやくワイツゼッカー
    の本音が見えてくる。
    
         一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というよ
        うなことはありません。罪といい、無実といい、集団的で
        はなく個人的なものであります。
        
     ワイツゼッカーの回りくどい主張はこう要約できよう。当時
    のドイツは、ヒットラーに乗っ取られた車のようなものだ。そ
    れが暴走して事故を起こした、その罪はヒットラーとナチス党
    員の個人的なものである。車の所有者たるドイツ民族には、賠
    償責任はあっても、罪はない。

ヴァイツゼッカー大統領の主張を「ドイツ民族には責任はあるが罪はない」と曲解している。しかし、同じウェブページで紹介されているように、大統領はこう演説している。

         罪のある者もない者も、老若男女いずれを問わず、われ
        われすべてが過去に責任を負っている。 

 つまり、「罪がなくても責任はある」と言っている。なぜわざわざ浅ましい方向へ曲解するのだろう。

宮台真司ヴァイツゼッカー大統領の演説についてこう論じている。

この問題については、ドイツの戦略がすごく参考になると思います。1946年のカール・ヤスパースの講義(『戦争の罪を問う』)とか、85年のヴァイツゼッカー大統領の演説のポイントは、ドイツ人は謝罪はしなくてもよいといことでした。同じドイツ人だとはいっても、軍人か軍属か民間人か、あるいは軍人でも組織内ポジションがちがえば罪は異なる。そもそも当時生まれていなかった世代には罪は一切ない。したがって、ドイツ政府は謝罪しようとしてもできない。それぞれに罪が異なるドイツ国民を代表することが論理的にできないからだ——こういうロジックです。
 よく知られているように、冷戦体制以降は東西ドイツに分かれてしまったので、政府間賠償ができなかった。だから、賠償にかわる振る舞いとして、自治体や企業や国などが、それぞれ個人から請求があれば随時補償するという個人補償図式しかなかった。ただ、そのときにヤスパースヴァイツゼッカー大統領は、そのような個人補償がドイツ人の利益になると考えた。だから、たとえばヴァイツゼッカー大統領は罪と責任を区別し、個人によって異なる罪の如何は横に置くとして、できるだけ共同で責任を果たしていこうと呼びかけました。
 
橋爪大三郎大澤真幸宮台真司(2013)『おどろきの中国』p.279)

個人的にも覚えがあるが、「自分はその時代に生きてすらいなかったのに、なぜ謝らなければならないのか?」と不満を感じた人は多いと思う。その不満が転じて「あの戦争は悪くなかった」という「修正主義」や、「韓国や中国と協力する必要などない」という「排外主義」につながるのかもしれない。

そうではなく、まず各国と協力する必要があることを認めた上で、どうすれば互いの感情を回復し未来へつなげられるかを考えなければならない。ドイツでは卓越した哲学や理念によって「自分たちが主体的にコミットする」方向へ議論を組み立ててきたことが参考になるだろう。