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回心誌

世の中わがんね

映画『映画「立候補」』その2

映画「立候補」についてすでにこのブログに書いているけど*1、まだ書き足りないのでもう一度。

マック赤坂が候補者の取り扱いにおける不平等を問題にしていると指摘したブログ記事がある*2。また、マックは何度となく公職選挙法を引合いに出して、自分には演説する権利がある事を強調する。
いずれも民主主義の根幹に関わる問題提起だ、ということを書いておきたい。

公職選挙法には細々とした規定があるが、金権政治、汚職を防止するための規制がほとんどだ。ではなぜ金権政治を防ぐのか?
民主主義システムの入力は投票のみであるべきだからだ。その他の要素は民主主義システムに直接的に作用してはならない。なぜ投票のみであるべきなのか? もし他の要素が直接的に影響するとすれば、権力はその要素を恣意的に操作し、投票の意義を無効化できてしまうからだ。その場合、権力は必ず自身を際限なく拡大させる。
新興宗教による政治団体が問題視されるのも、それが理由だ。
そして、やはり同様の理由で、マスメディアが候補者を不平等に扱うことは好ましい事ではないのかもしれない。ただ、そうしたマスメディアを有権者がどう選ぶのか、ということもまた民主主義の一過程であると捉える事もできると思う。アメリカでは、各メディアによって明確に取り上げ方が異なる*3。この選択の自由ついて、読者が消費する情報を選ぶことのできる市場原理的な表現の自由より、民主主義を支えるための表現の自由の方が重要であるとする考え方もある*4。この立場の最も単純な例は、好きなドラマを我慢してでもテレビで公共的な問題を扱うことに同意するというものだ。
次に、演説の自由について。これもサンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』に書かれていたことだが、民主主義を支えるためには、たとえ通行人が煩わしく感じたとしても、公共的な空間で演説をする自由を妨げてはならない、とする考え方がある。アメリカでは、私有地であるショッピングモールにおける言論活動を、私有者は正当な理由なく妨げてはならない、とする判決が出ている。
マックが何度も何度も公職選挙法を引合いに出した。もしかしたらこれを見て、法律を盾にやりたい放題やっている!と憤りや違和感を覚える人もいるかもしれない。(まあ、法律的にも大丈夫かというやりたい放題もあったけど、それは置いておいて、)公職選挙法やその他条例等が候補者の演説の権利を確保していることには、民主主義の根幹に関わる意義がある、というわけ。
個人的には、演説する権利がむしろ候補者だけの特権のようになってしまっているのもまたおかしなことだと思うわけだが。実際のところ、禁じられているわけではないので、やろうと思えばやれるとは思う……。