回心誌

日々是回心

msn産経ニュース『中高生のための国民の憲法講座』

 産経新聞のウェブ版で憲法学者百地章と比較憲法学者西修による憲法講座のコラム。色々な意味で新鮮。

  1. http://sankei.jp.msn.com/life/news/130706/edc13070608240001-n1.htm
  2. http://sankei.jp.msn.com/life/news/130713/edc13071313310002-n1.htm
  3. http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130720/plc13072009070006-n1.htm
  4. http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130727/plc13072708470006-n1.htm
  5. http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130803/plc13080309160008-n1.htm
  6. http://sankei.jp.msn.com/life/news/130810/trd13081009460007-n1.htm
  7. http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130817/plc13081708410008-n1.htm

 次に、近代国家が誕生すると「立憲的意味の憲法」が登場します。これは憲法とは国家権力を制約し、国民の権利を保障するものという考えで、絶対王制でみられた権力者の横暴を抑制するために生まれました。「憲法が国家権力を縛る」というのはこのことです。

 憲法の性質や特色に着目すると、憲法には国家権力を制約する「制限規範」の側面があることは確かです。国家権力がむやみに国民の権利を制限したり奪うことは許されません。

 しかし、同時に憲法は国家権力の行使について根拠を定めています。例えば国会が法律を制定することができるのは、憲法が国会に立法権を授けているからです。内閣が国会に代わって勝手に法律を制定したりできないのです。

 税金も同じです。憲法では課税徴収権が政府(権力)に授けられています。それによって国民から強制的に税金を徴収することが許されているのです。こうした憲法の役割を「授権規範」といいます。これも「制限規範」同様、憲法の大切な一面です。

 そこで「憲法とは国家権力を縛るもの」という言い方ですが、これは一面を強調しただけで決して正しくないことがわかります。憲法は国家権力を縛ることもあれば、国民にさまざまな義務を課したり、時に権利を制限する場面もあるのです。

 特に17〜18世紀の自由主義国家のころと違い、現代は社会国家の時代ですから、国民の福祉の実現のため、国(国家権力)が国民生活に積極的に関与するようになりました。また快適な環境を維持するため、さまざまな規制を加えるのも国の役割です。

 憲法の制限規範によって政府を制約し、一方で授権規範によって国民に義務を課す、というふうに読める。
 しかし、国民に課される義務や権利の制限もまた、国民全体の福祉の実現のためであると考えられる。税金を適切に徴収しなければ福祉が実現できないので、政府は法律によって定めた通りに税金徴収を行わなければならない、ということになる。
 だから制限規範にせよ授権規範にせよ、条文ひとつひとつを見れば直接的には国家を縛るもの、国民を縛るものがあるように見えるかもしれないが、より上位の次元で考えれば、その目的は国民の福祉であり、契約の名宛人は国家(政府)である(=国家を縛る)と考えるべきだと説明される*1

 国民の憲法の議論の過程では以上のことを前提に「国家論を踏まえた憲法」を考えました。憲法は英語の「コンスティテューション」の訳語ですが、この言葉は本来「構成し組織する」ことをいい、「国柄」という意味も持っています。

 最近の世界の憲法を見ると、単に「国家の基本法」にとどまらず、「コンスティテューション」の原義どおり、国家を構成する「国の姿・形」や「成り立ち、歩み、ありよう」を積極的に盛り込んでいます。歴史や伝統を踏まえた「国柄」を盛り込むのが最近の憲法潮流でもあるのです。

具体的にどういうものだろう。

 先週の講座で「憲法とは国家権力を縛るものだ」といった主張が必ずしも正しくなく、むしろ一方的に国家=悪、国民=善だと決めつけていないか、と述べました。

 これは左翼的な決めつけのことだと思うが、権力には制限を加えなければ必ず暴走してしまう、というのは政治学的な常識であると思うんですが。

 結論を先に言います。「国家」には2つの意味があります。つまり本来の「国家」と「政府」です。その両者をきちんと区別して考えないといけません。

 例えば「国を愛する」「国を守る」という場合の「国」「国家」について考えてみましょう。ここでの「国家」とは、父祖伝来の祖国、先人たちが歴史的に歩んで来た「国民共同体」を指します。歴史の中で団結したり争う時代はあっても、固有の伝統や文化のなかで国民がともに生きてきた運命共同体、これが本当の意味の「国家」です。

 これに対して「国を相手に裁判を行う」「国家からの自由」といった場合にも「国」や「国家」という言葉が用いられます。しかしこれはあくまで統治機構としての国家のことで、「政府」を意味します。

 それに、権力を悪と決めつけるのも誤りです。なぜなら、権力なくして国家の独立と平和は維持できないからです。要は使い方で、犯罪を防止したり国民の幸福を実現するために行使されるのも権力です。逆に権力の乱用が政治の腐敗や国民の不信を招くことだってあるでしょう。

 大切なことは国家には2つの意味がある、それをしっかりと認識する必要があるということです。「国を愛する」といっても、決して「時の政府を愛せよ」ということではありません。また、「国家」によって保護され、人権が保障されているからこそ、国民は自由に「政府」を批判できるのではありませんか。

 国と政府を分けて考えようという提案。これには私も賛成だ。ただ、私の考えでは民族のアイデンティティとしての文化的な国と政治的主体である政府・国家を分けるべきだ思うが、国家と国を同一視するのはよく分からない。
 国の範囲をきちっと定義し、国家権力と結び付かないように気をつけなければ、戦時中のように政治行為に愛国心を利用することになりかねない。国を愛するかどうかは道徳的な事柄であり、法と道徳を分離するのが近代国家の大きな特色(中立国家と呼ばれる)なのであるが、明治以降の日本では近代国家を形成するにあたり、このような道徳の内面化の問題が軽視されてきた*2
 したがって、「国を愛せよ」という意志を個々人が表明することには賛成するが、憲法に明記すべきでないと考える。愛国心はそのように強制によって生ずるものではなく、個々人のうちから自然にわきあがるものでなくてはならないとも思う。
 なお、北朝鮮憲法には次のような規定があり、法と道徳が未分化であるように思える*3

 公民は、人民の政治的・思想的統一と団結を断固として守らなければならない。
 公民は、組織と集団を重んじ、社会と人民のために献身的に働く気風を高く発揮しなければならない。

 権力があるからこそできることがあるのだから、権力を悪と決めつけるのもおかしい、というのにも同意できる。

 皆さんは学校でルソーの「社会契約説」を習ったと思います。自由な個人同士の契約によって国家が成立したとして、国家の成り立ちや正統性を説明する理論です。しかし歴史上、社会契約など存在しませんし、本当に契約によって国家を造ったり解消できるでしょうか。ルソーのいう「国家」とは「政府」のことと考えられ、それなら社会契約説にも一理あります。

 学校で教わることはまずないのですが、実は社会契約説に対する批判から生まれた「国家有機体説」という理論があります。国家とはバラバラな個人の寄せ集めではなく、個の独立と全体の調和が実現する有機的な統一体だとする考えです。さきほど「運命共同体としての国家」について述べましたが、これは国家有機体説の主張に近い。「国家」を正しく認識するため、皆さんに是非、知ってほしい考え方です。

 国家有機体説というのは耳馴染みのない言葉で詳しくは無いが、ヘーゲルやスペンサーらによってとなえられたものとされる。しかし、そのヘーゲルも「内面的に自由であり、主観のうちにその定在(ダーザイン)をもっているものは法律のなかに入って来てはならない」と言った。つまり、中立国家だ。
 また、国家有機体説は一見したところドイツ・ナチス北朝鮮チュチェ思想のような全体主義に結び付きやすく危険性を感じるがどうだろう。

 第3講では第96条の3分の2規定について。これが高いハードルであるかについては私も疑問に思っている。

 憲法改正に厳格過ぎる条件を課したのは日本の弱体化を企図したGHQ(連合国軍総司令部)でした。その当事者が「簡単に変えられないようにした」と証言しているのです。改正に反対の人たちは、このことをどう考えるのでしょうか。

 GHQが厳格すぎる条件を課したのは、日本人に民主主義を運営する民度が無いと判断したからだと思う。その上で、では現在そのような民度に達しているかというと、達していないのではないだろうか。

 国民は憲法を守る必要があるのか、ないのか、という問題について。

 答えは意外に簡単です。憲法を国民が順守するのは当たり前だから書いていないだけです。護憲派のバイブルとされている「宮沢憲法学」の教科書にもちゃんとこう書いてあります。

 「本条(99条)は、国民は憲法を尊重し、擁護する義務を負わないという趣旨を含むものではなく、国民のそうした義務は、当然のこととして前提されていると見るべきである」

 憲法は国民が制定したものです(前文)。だから自ら制定した憲法を国民自身が守るのは当然です。

 この一文は憲法学者の間で全面的に支持されているのか? また、宮沢の他の議論との関係は? と言った辺りが疑問だが、けっこうちゃんと勉強しないと分からなそうだ。

 憲法は教育や納税などの義務を国民に課しています。この弁護士の話を真に受けて「国民には憲法を守る義務などない!」と言って納税を拒否できるでしょうか。当然、できません。

 実は、この弁護士も憲法納税の義務が書いてあることを突っ込まれると、「このような義務は憲法に書く必要のないことだ」と片付けていましたが、本当にそれでよいのでしょうか。そこで、「国民の憲法」ではこのような誤った解釈に国民が惑わされることのないように、憲法に国民の憲法順守義務も明記しました。

 国民は憲法に規定された納税の義務に従うというより、憲法に規定された納税の義務を国民に課さなければならないという条文に国家が従い、そうして国家が規定した法律に国民が従う、という構造になっていると理解している。それがゆえに「法律に定めるところにより」との規定により、政府は国民に納税の義務を課す法律を定めなければならない、という政府への命令文として機能している。
 この例外が「労働の義務」で、これには「法律の定めるところにより」の文言がない。したがって、唯一直接的に国民に対して命令する条文となっている。これは一般的には道徳的義務に過ぎず法的には効力がないと理解されるが、もし百地の言うように、憲法中の義務に国民が従わなければならないとすれば、ニートは一体どういう扱いになるんだろう。ニート憲法の義務に従わなくてもいいことの証拠ではないか。

 余談だが、北朝鮮などの社会主義国家の「憲法」には労働の義務を課したものがあり、それらは国民への命令として機能している。しかしこれらの憲法は近代憲法ではないとされる。

 第5講ではお決まりの、他国と比べて日本では改正が少ないことの紹介。
 だが、他国では常識的な範囲内で手堅い改正案を提案しているから改正できるだけのことではないだろうか。改正の内容を議論せず単に数字を見比べるだけなら専門家を呼んでくる意味はない。
 ジェファーソンを引用している。

 米国独立宣言の起草者で、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、こう言っています。「人間の作品で、完全なものは存在しない。時代の流れのなかで、憲法典の不完全さがあらわになるのは、避けられない」

 日本国憲法がつくられたときと今とでは、時代がすっかり変わっています。日本国憲法のどんなところが時代に合わなくなっているのか、どうすれば時代に合わせ、また時代をリードしていけるのか、そのような視点から日本国憲法を考えていく必要があります。この講座では、日本国憲法の問題点がみなさんに示されていくことになります。

 私も改正しなければならないとは思うのだが、自民党改憲草案には賛成できない。

 第6講は平和条項について。

 「日本国憲法は、世界で唯一の平和憲法である」。これも「神話」です。私は、世界の188の憲法典を調べてみました。その結果、158(84%)の憲法典に平和条項がおかれていることがわかりました。

 9条を守ろうと主張する人たちは単に平和条項がおかれていることじゃなくて、武力放棄の規定があることをもって「世界で唯一」と言っているのでは? なぜこのような歪曲を行うのか理解できない。平和条項そのものがどの国の憲法にもあるという常識を披露されても……。

日本国憲法と大きく違うのは、これら両国の憲法には、兵役の義務規定があることです。「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」は、自衛権の行使を否定しておらず、自衛のために、軍隊をもつことは許されていると解釈されているのです。これが、国際的に合意された解釈です。

 また、侵略戦争の否認・禁止を定めている憲法として、ドイツ基本法(1949年)や韓国憲法(1987年)などがあります。両国も、軍隊をもち、兵役の義務規定をおいています。

 技術が進歩し専門化が進んだ現代の軍に徴兵は必要ないという話をよく聞くが。徴兵制を導入するとすれば、精神的な意味しかない。
 兵役の義務規定を置いていても志願者で十分間に合うから、どの道関係ないのかな。

 ドイツの著名な憲法学者は、次のように述べています。「憲法は、平時においてよりも、緊急時においてこそ、その真価が発揮されなければならない」

 誰だろう。名前を出さないのに何の理由があるのかと勘繰ってしまう。ナチス・ドイツの暴走の一つに緊急大統領令やら非常事態宣言やらがあるのだが、だから緊急時対策は必要だとは思うが、非常に慎重な議論が必要だろう。

 第7講には第5講と同じ疑問(他国で改正できるのはその提案が妥当なものだからじゃないの)がわく。

 注目されるのは、家族の保護に関する条項です。日本国憲法は、第24条で、家族に関する法律は「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に立脚して定めることが強調されています。家族は、国家・社会との関係でどのように位置づけられるのか、明記されていません。多くの国の憲法には、家族を国家・社会の基礎的単位として位置づけ、保護されることが定められています。産経新聞「国民の憲法」でも家族を保護、尊重する規定を置きましたが、私たちは「基礎的単位」としての「家族のありよう」を考えてみる必要があると思います。

 産経新聞「国民の憲法」の家族についての規定は以下のとおり。

 第二三条(家族の尊重および保護、婚姻の自由) 家族は、社会の自然的かつ基礎的単位として尊重され、国および社会の保護を受ける。
  2 家族は、互いに扶助し、健全な家庭を築くよう努めなければならない。
  3 婚姻は、両性の合意に基づく。夫婦は、同等の権利を有し、相互に協力しなければならない。

 家族の保護規定については賛成だけど、2項の努力義務みたいな規定は必要か? また、家族の保護規定そのものについては多く国の憲法で採用されているようだけど、こういう努力規定とか義務規定を設けている国は少ないのでは(調べた限りではロシア憲法中華人民共和国憲法にあった*4)。
 まあ、現行憲法でも「婚姻は、(中略)相互の協力により、維持されなければならない。」とあるが、だからといって離婚が禁止されるわけでもなければ離婚が減るわけでもなく、端的に言って無害だが無駄。

 ところで、リベラル側からも憲法改正すべしという主張は十分ありえて、例えば外国人の人権を保護するために国民を人民に変更しようとか、同性結婚を認めるために「両性の合意」に基づく婚姻という表記を改めようとか。そっち側が取り上げられないのはまあ産経だから仕方ないにしても、メディア全般で扱ってない印象。
 そういえば、東浩紀憲法草案を発表してた。

 全く読んですらいないので、チェックしておきたい。

*1:自民党改憲案の粗悪な人権感覚 - YouTubeの20分辺りからこれに該当する説明がある

*2:丸山眞男『現代政治の思想と行動』「超国家主義の論理と心理」

*3:国民の義務 - 回心誌

*4:国民の義務 - 回心誌