回心誌

日々是回心

炎上怖い、バカで間抜けな炎上騒ぎ

 度を超えた炎上は不正義に基づく罰で、損失なんですけど!
 例えば厳罰主義の問題があって、度を越した罰は「どうせ炎上するならもっとでかいことやろう」になって抑止力として働かなくなる。リンチの問題もある。社会的な同意のない罰がなぜ許されるのか。

 このような事件が社会的に認知されれば炎上は減る、という意見もありうる。炎上を目当てにする事件を起こす輩が現れる可能性もあるが、確かに減るかもしれない。でももし減ったとして、そういう悪いことをする輩は減るのか? 単に表に出なくなるだけだろう。本当に悪事そのものを止めさせたいだけなら、炎上は逆効果だ。

 となると、悪事そのものではなく、悪事を表に出し炎上させることこそが悪いことであり、罰(=炎上)に値するのだということにしなければ、ことさら表に出すことそのものに罰を与える理由は無い。
 なんだかおかしな話だ。罰を受けることが罰に値する? これでは同語反復だ。もしそうなら、なんであれ炎上さえ起こせば、起こされた側は悪いということになる。

 現状で炎上を起こすことに何らかの正当性があるのだろうか。
 まず、ネット上の炎上は一見大勢の人によるものに見えたとしても、そうであるとは限らない。実際に大勢の人によるものだとしても、それが冷静さを欠いた感情の表出であるなら、正当性はないだろう。突発的、一時的な感情の表出で人を裁くべきでないことは明らかではないか。
 そうした感情的な裁きを無くし、真に正義を実現するために少なくともマシなシステムが現在の法体系だろう。議論のすえに選んだ代表者たる議員に議論させ法を作り、法の専門家たる裁判官がそれを元に裁く。もし多数の感情で人を裁くのが許されるなら、当然こんな面倒な仕組みは必要ないはずだ。

 マスメディアによる批判は、司法の枠の外から罰を与えているのではないか? それとどう違うのか? 確かにそういう側面もある。必ずしも問題がないわけではない。だが重要な相違点が二つある。
 一つは、マスメディアは専門家であることが少なくとも期待されている。ゆえに一般人ほど誤った判断をくだしにくいだろうと期待される。
 二つには、責任の所在が明確であることだ。つまり、損害賠償請求などを行いやすい。もちろん大メディアになれば良い弁護士を雇うので云々というのはあるかもしれないが。