回心誌

日々是回心

SEALDsのブロックに関して

【SEALDsに対する私の見解】

SEALDs(以前はSASPLと名乗っていたと思う)については大手メディアで取り上げられる以前からぼんやりと存在を認知しており、学生からこのような流れが出てくることを嬉しく思っていた。立憲主義を大きく掲げている点に共感したし、ウェブサイトがオシャレで見やすい!

そして、行動的である点に何より感銘を受けた。いや、受け続けている。

私はというと、日々の生活に追われ、実際にデモに行くことは無かった。その点で、私がSEALDsに何か言う資格は無いのかもしれない。行動を起こすことが最重要なのであって、結局私はネット上でブツブツ言うだけなのだから。

ただ、学生時代から民主主義におけるインターネットの機能に興味を持っていたこともあり、今回のブロックの件に関して「何か言いたい」というモヤモヤとした気持ちが抑えられなくなり、この記事を書くに至った。

Twitterと民主主義について】

私のいた研究室の先輩の研究で、「Twitterには多様な意見を結びつける機能がある」という結論のものがあった。研究成果として尊重はするものの、Twitterを使っている私自身の感覚とは齟齬があった。

むしろ逆ではないか? Twitterでは自由に自分の好きな人をフォローし、気に入らない人をリムーブできる。さらに、ブロックによってやりとりを拒絶することができる。多様な意見を結びつけるどころか、ますます同じ立場の人たちとばかり交流することになるのではないか?

加えて2015年6月、ブロックリスト共有の機能がリリースされた。

好きな人と繋がり、気に入らない人から遠ざかるのが容易である、というのはインターネットの他のサービスでも同様であるが、実はこの点について、以前より民主主義の観点から危惧が指摘されている。

サンスティーンの議論

アメリカの憲法学者である著者サンスティーンはその著書『インターネットは民主主義の敵か』において、まず民主制度が「広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とする」点を指摘している。「選択していないものへの接触」と「共有体験」とも言い換えられている。

さらにインターネットとその周辺技術によって、個人が知りたい情報をフィルタリングすることが益々容易になっているが、こうしたサービス*1によって、人々は自分と異なる意見を持つ人々と交流しなくなってしまい、民主主義の基礎であるオープンな議論ができなくなってしまうのではないか、と危惧している*2

自分と同質の集団とばかり議論することで集団の意見が過激化していくことは、集団分極化と呼ばれている。集団分極化は次のように説明される:

メンバーが銃規制反対に傾いている集団の議論では広範な反対意見が出てくるが、賛成意見は数も少なく迫力もなくなるので、メンバーはより強硬な銃規制反対論へとシフトする

あるグループのメンバーは、差別撤廃措置、フェミニズム、そして銃規制に大反対なだけでなく、大反対していることを知られたい、と考えているとしよう、この人たちが同じように大反対の人たちと一緒になれば、感化を受けてより過激な反対意見へとシフトするのはもっともであろう

サンスティーンは集団分極化の危険性を指摘しつつ、同質集団による議論の利点も挙げている。

隔離型討議の有利な点は一般の討議では見えなかったり、聞こえなかったり、あるいは押しつぶされてしまうような意見が確立されることにある

具体的に、黒人や女性が権利を勝ち取ることはできたのも、そうした同質集団による議論の成果だと指摘している。

まとめると、Twitterがもし多様な意見の交流を促すのであれば、民主主義を促進する良いツールである。しかし、実際には自由にフィルタリングできるために、繋がりが同質化する危険がある。ただし、少数派が勢いを得るという点で民主主義に寄与できる点もある。

【今回のSEALDsのブロックに関して】

実は私のTwitterアカウントは、いつからかSEALDsにブロックされている。気が付いたらブロックされていた、といった感じ。SEALDsだけでなく、(少なくとも私が一方的に)スタンスを同じくしていると考えているアカウントからもブロックされていた。リツイートでタイムラインに流れてきたツイートに同意し、さらにリツイートしようとしたところブロックされていたためできなかった、というのは1度や2度ではない。

なぜブロックされているのか、個別には分からないが、SEALDsはブロックについて次のように説明している。

私はもちろん嫌がらせ等の悪質行為を行ったことはないし、差別についても概ねの基準に照らして問題とならないと思う。ただ、ネトウヨ系のアカウント*3をフォローしており、そのことがブロックされた原因であろう。フォローの理由については後述。

実はこのSEALDsによるブロックについての説明も最近まで気付くことがなかったが、高島弁護士の「民主主義の敵認定騒動」をきっかけに拝見することができた。

自由な言論流通や討議が民主主義にとって不可欠であるのは、先に述べた通りである。一方で、レイシズムや嫌がらせは民主的な議論以前の問題として拒絶されるべきだと考えている。そうした行為を繰り返すアカウントはブロックされて当然である。問題は、そうしたアカウントのフォロワーをブロックすることについてである。

私が差別主義者をフォローする理由

繰り返し述べていることだが、Twitterでは自分の好きな人を自由にフォローできるため、同じ意見を持った人同士でつながることが多い。そのため、フォロワーもフォロー対象と同様の意見を持つ傾向があると予想できる。差別発言を繰り返すアカウントの元には、同様の傾向のアカウントが集まりやすいし、嫌がらせにしてもそうだろう。(同時にこの側面こそ、インターネットが民主主義に対する脅威とされる点である。)

さて、私は許容できないデマや差別発言を繰り返すアカウントでもフォローしてきたが、それは彼らのデマや差別に「同調しているから」では断じてない。そうした界隈でどのようなデマや差別、詭弁が流通しているのか、情報収集したいと考えたからだ。問題のある発言に対して逐一指摘し論難するというやり方は当然あるべきだし、そうしている人を尊敬する。しかし、私にそれができるとは思わないし、別の方法で差別やデマと戦いたいと考えている。

また、私自身はリベラルを自認しているが、保守主義者や、その他自分と立場の異なる意見をフォローしていたいと思う。残念ながらその中には差別主義者が含まれるため、差別的な発言を目にして不快になることは少なくないが、リムーブする必要は感じない。上で述べたように、快・不快を情報収集の基準にするのは民主主義の観点から好ましくないのである。

それに、私は差別には断固として反対するが、差別主義者から有益な情報が一切得られないということはない(もちろん差別に関連しない話題でのことだが)。また、フォローしていることで結果的に差別主義者を勢いづかせているということもあるにはあるだろうが、その効果はそれほど大きくはないだろう。

このように、フォローしているといってもその意図は同意・同調以外にもありうるし、悪質ユーザー予備軍、差別主義者として扱われるのは残念である。

ブロック全般について

また、ブロックされて側から見たとき、ブロックには一般的に次のような問題点もある:
・なぜブロックされたのか、わからない点
・取り消しを求める手段が無い、もしくは非常に限られている点
したがって、公的な性質を帯びるほど、ブロック機能の利用は最小限にすべきだということになる。Twitter上でどのようなアカウントが公的だと言えるのかは難しい議論になりそうだが、SEALDsの公式アカウント(@SEALDs_jpn)は私のような凡百のアカウントに比べてはるかに公的な性質の度合いが強いのではないか。

また、嫌がらせを防ぐ上で、巻き込みブロックがどの程度有効なのかという点に疑問を感じている。これは当事者になってみないとわからないことだし、定量的な判断も難しいだろう。

【やっぱりSEALDsは応援したいし、差別はクソ】

以上長々と書いてきたが、まとめると、差別主義者や嫌がらせを繰り返す悪質ユーザーをフォローしているからといって、一律でブロックするのは巻き込みのコストが大きい。私のような変わり者もいるし、心情的に応援している身としてはただただ残念だ。一方で、日々悪質行為に悩まされており、他に適当な手段がないなら、こうした広範囲のブロックもやむを得ないのかもしれない。当事者でなく、また他に妙案があるわけでもない私から言えることはあまりない。

結局、私はSEALDsが日本の民主主義に与えた影響は大きく評価できるし、それは多少のことでは揺らがないと考えている。

また強調しておきたいのは、差別主義やその他の悪質行為こそ、最も非難されるべきだという点。民主主義にとって言論の自由は不可欠だが、サンスティーンが指摘するように「自由言論は絶対でない、という点に曖昧さはない」。

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

【追記】11/14

中宮は「ゴキブリチョン」こそ言わなくなったものの、「名前を言ってはいけない邪悪な民族」との表現で朝鮮人・韓国人差別を繰り返している。ネット上にはこれに限らず酷い差別表現が溢れているが、それらを知りつつ逐一抗議しにいかないことが差別への加担なのだろうか。とするなら、ネットにアクセスできる人のほとんどが差別への加担者ということになる。

そうでなく、「フォローという連帯の意思表示をしながら、なぜ抗議しないのか」ということなら、私に言わせれば「フォローが連帯の意思表示である」というのも一方的な解釈に過ぎず*4、そうでない人がいることをご理解いただきたい。

抗議していないことについては確かに批判されるべきだが、抗議していようといまいとフォローしていればどのみちブロックされていたのであるから、今回の件に抗議云々はあまり関係ないという見方もできる。差別に関してであればブロックも仕方ないと思うが、「〜をフォローしているからブロック」という手法は一般にやはり危険である。XX新聞を購読している人には購読させません、と別の新聞社が宣言したら、どうだろうか。

とはいえ、私のように抗議しない人たちは確かにヘタレだし、野間氏のように直接抗議している人たちのほうが立派だ、ということは繰り返し申し上げておく*5

*1:本の中では『デイリー・ミー』と象徴的に表現されている

*2:公開の討議が民主主義にとって重要である点は、アメリカ最高裁の判事であった2人の言葉を引用し、強調している:ホームズ「究極の善はアイデアの自由通商によって実現する」、ブランダイス「自由の最大の敵は消極的な国民である.公開議論は政治的義務である」

*3:例えば、中宮崇(@nakamiya893)、田山たかし(@neon_shuffle)

*4:例えば山口先生は池内ひろ美に賛同してフォローしているわけではない。 https://twitter.com/yamtom/status/665026186406334465

*5:野間氏の障害者を貶める差別的な表現に賛同するわけではないが、それでも肯定的に評価できる部分は非常に大きい