回心誌

日々是回心

「差別か差別じゃないか」という線引きについて:なぜ「日本人殺せ」は差別ではないのか

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こういう下らない議論を未だに続けている人たちがいる。
もうこういうのはいい加減にしようと言いたい。




例えば名誉毀損について言うと、辞書的には「名誉を傷つける行為」を名誉毀損という。

ということは、私がチャックを開けたまま外出しているのを見てバカにするのも定義上は名誉毀損と言えなくもない。名誉が傷ついたんだから!

しかし、一般に訴訟で賠償金を支払うことになったり刑事罰を課せられるような名誉毀損は、一定のハードルを越えたものに限られる。

ここで、名誉毀損に2つの意味があることが分かる。つまり、
(1)単に辞書的な意味での名誉毀損。どんな些細なものも含めることができる。僕はチャックを開けたまま外出して傷ついたんだ。
(2)特に対処すべき名誉毀損。法的、倫理的に一定のハードルを越えたもの。

一般に、「それは名誉毀損だろう」というときは(2)の用法であろうと思われる。

同じように、差別についても、
(1)小さなもの、細かいものを含めてとにかく差別の定義に合致している場合の差別
(2)その中でも特に、何か行動を起こさなきゃ、と思わせるような、対処すべき差別

という2種類の用法があると思う。



記事によると、上瀧弁護士は日本国内で「日本人は誰でも殺せ」と言っても差別でないとおっしゃっているが、これは(2)の用法だと思う。

いや、それは間違いだ、私の定義から言えばこれは(1)の意味でも明確に差別じゃない、と考える方もいるだろう。

うん。それも分かる。優位性やマイノリティ・マジョリティという概念で区別することもできるだろう。

ただ、「それが差別なの?じゃあこれは差別じゃないの?どうしてどうして?」という議論が絶えないのは、多くの人にとってそういう概念がまだピンと来ないからだと思う。



そもそもなぜ差別がいけないのか?

差別は不平等で弱いものいじめみたいな状態だ。だからそれがダメなんだ、というのは感覚的に理解できる。

でもそれだけじゃなく、差別は放っておいても解決しないし、むしろ悪化していってしまう。最悪の場合は、虐殺や極度の貧困といった悲劇につながる。このような悲劇は人類の歴史の中で繰り返し現れてきたし、強調し過ぎるということはないと思う。

だから、差別は解決が難しく、優先すべき問題だと思うし、これは結構共有されていることだろう。



じゃあ、なぜ差別は悪化していくのか?

それは、差別が次の差別を呼ぶような構造をしているからだ。

どういうことか。

今はそれほどではないが、ひところ(というか私が中高生のとき)はオタクは蔑視の対象だった。テレビなどで奇異な目線を送ることがあるなど、社会全体としてオタクを蔑視する空気が共有されていた。そういう空気は、社会を構成する一人一人がオタクを蔑視する発言をしたり、軽んじるような態度をとったり、上で述べたような番組が作られたり見たりすることでますます強化される。そうすると、さらにそうしたオタク蔑視的な行為が増える……という具合。

要するにポジティブ・フィードバックがかかる。これは、人間の持つ「他人の態度や言動を真似をする」「属性や見た目で内面を判断したり行動を予想する」といった社会的な性質に一つの原因があるんだろう。



そのように考えれば、差別の何が問題で、単なる不当な扱いとどう違うのかが分かるだろう。

差別とは「属性を元にした不当な扱いである」と言う人たちがいる。それは違う。というか、不十分だ。

社会の中で、偏見や法制度、慣習、蔑視する風潮が共有されているという不均衡な社会状況があり、その中でなされる、ある個人に対する具体的な不当な扱いが、その不均衡な社会状況によって生まれたものだったり、不均衡な社会状況を強化するものであった場合、「差別」として問題になるのだ。

だから単発だったり偶然だったりする不当な扱いは、差別ではない。



と、このように考えれば、
(1)定義上の些細なものも含んだ「差別」
(2)解決すべき社会問題としての「差別」
が明らかになってくる。


まず、(1)について。「不均衡な社会状況と共鳴する形でなされる不当な扱い」と定義できる。

この時点で「日本国内での『日本人を殺せ』」を差別と言うのがかなり難しいことに気づく。
日本国内において、日本人は不均衡に扱われているのだろうか。そもそも日本人が大多数を占めるというのに。

それでも、例えば海外での日本人差別につながる、ということはできるかもしれない。

そのように言えたとしても、そのつながりは非常に些細なものだろう。
だから(2)の解決すべき社会問題としての「差別」には当たらない、と考えている。

もう少し(2)について掘り下げよう。



差別がなぜ「いけない」か、ということについては上で説明した。私としてはひとまず以下の4点を提案する:
・その属性を持つ人たちを深く傷つける
・不公平が持続される
・放置すれば虐殺などの悲劇にもつながりうる
・ある差別は次の差別につながる

「いけない」理由を整理しておくと、それがそのまま「大して問題ではない差別」と「深刻な差別」を判断する基準になる。

つまり、
「深く傷つけるほど悪い」
「不公平な度合いが大きいほど悪い」
「虐殺などにつながるほど悪い」
「差別的な空気を助長するほど悪い」
という判断基準が作れる。

「海外で日本人が差別を受けている」という例はいくらでもあると思う。

でも「日本での『日本人を殺せ』」が「海外での日本人差別」につながる度合いって、「日本での『韓国人を殺せ』」が「日本での韓国人差別」につながる度合いと随分違うよね。回り回ってつながる可能性は無くはない。でも風が吹けば桶屋が儲かるような話だ。

また、日本で言われた『日本人を殺せ』を聞くのは、ほとんどが日本に住んでいる日本人だ。
そう言われて精神が傷つくんだろうか? その傷つき具合は在日韓国人が聞く「韓国人を殺せ」と比べて遥かに小さいものではないか?


だから「日本での『日本人を殺せ』」を厳密な意味で差別だと言うことはできるとしても、そこまで些細なものを問題として扱うことに意味はない。また、多くの人が「差別ではない」と言うのも、そういう理由によると理解できる。



もちろん、マイノリティ、マジョリティという語で説明することも多分できる。正確に議論するのが目的なら、そうするべきなのかもしれない。

ひとまずマイノリティを少数民族ということにしておこう(正確にはイコールではない)。少数民族はしばしば弾圧されたり、ひどい扱いをうけることがある。

同じ文化を持っていたり、血縁のつながりがある人たちとの間柄を大切にし、逆にそうでない人たちを傷つけたりするのは、ある意味では自然なことなのかもしれない。少なくとも、人間は時にそのような振る舞いをする傾向にある、ということは言える。
(もちろん、自然だからOKというわけでは全くない。平和な文明を享受するために、そうした人間自身の傾向を理解し、克服する必要があるということだ)

つまり、少数民族は差別されやすい。だから差別について考えるときに、少数民族であるかどうかに着目するのは当然と言える。

実際には、必ずしも少数の側が劣位の立場に置かれるとは限らない。だからマイノリティという語も場合によって単に少数という意味から拡張し、社会的な劣位を指すこともある。

乱暴に言ってしまえば、差別問題の文脈でマイノリティという語が登場する場合、「現に不公平な立場にあるから差別として大きな問題なんだ」と言いたいのだと捉えれば概ね問題ないんじゃないかと思う。





で、結局何が言いたいのかというと、この辺の話は当たり前にしましょうということだ。

でもそのためには、なぜ差別がいけないのか、差別にどんな性質があるから厄介なのか、ということから考える必要があると思うのだ。

どうも、差別というのは「いけない」もので、なぜ「いけない」、なにが「いけない」というところを考えられていないように思うのだ。

そうすると、「これは差別だ!」という強烈なレッテルを貼られた側は反論する権利を封じられたような気分になるのかもしれない。



何が差別で何が差別でないか、ということについて議論してて噛み合わないなら、まず(1)些細なものも含めて定義上の差別にあたるかどうか、という話をしているのか、(2)優先して解決すべき問題としての差別に含まれるかどうか、の話しをしているのか、どちらなのかをまず確認するべきかもしれない。

私は厳密には◯◯という行為が差別に当たるとは思いますが、あえて対処すべき問題とは考えていません。あなたはどうですか、と。


そして、(2)の意味で議論しているなら、なぜ差別がいけないのか、ということについて議論したほうがいいかもしれない。

私はこういう理由で差別がいけないと考えているんですが、あなたはどうですか、と。



書いてみて思ったけど、こんなことは差別問題に限らず議論する上では当然すぎることだよなあ。

でも、差別に反対する側ですら(私自身も)(1)と(2)をすぐに混同するし、差別主義者がそうした混同を利用して揚げ足をとるように「論破」するのを何回も見てきた。

そんな下らない議論をヤメにするのに、本稿が役立てば幸いだ。