貧困と援助をテーマとしたドキュメンタリー映画。
メッセージは明確で、考え無しの援助は有害であり、支援は自立を促すものであるべき、というもの。
実は私がこの映画を見ようと思ったのは、以前読んだ経済学の本『大脱出』にこの映画とほぼ同じ主張がされていたからだ。
この本のコンセプトも明確で、前半部では人々が不健康や貧困から抜け出してきた歴史と現状を語り、後半部で富裕国による援助がそうでない国を、かえって貧困状態に押しとどめていることを語っている。
数式などは全く使われておらず分かりやすいが、それなりに分厚い本なので読むのは大変だった。
映画『ポバティー・インク』はインタビューが多く、またグラフィカルな解説のおかげで理解もしやすかった。
冒頭、「Do They Know It's Christmas」という曲が紹介される。
私は知らなかったが、エチオピア飢饉への援助を促す目的で作られた曲なのだという。その中で、特に次の歌詞が引用され批判されていた。
Where nothing ever grows, no rain or rivers flow
(雨もなく川も流れない不毛の土地)
これは実際のアフリカの現状とは合わない。
もちろんこれはほんの一例にすぎず、メディアは援助を求める際にこのイメージに頼ってきた。これではアフリカが不毛な土地であるかのようなイメージが固定されてしまう。
これが貧困援助ビジネスの枠組みを形成していった。
では貧困援助の何が問題なのか。それが具体例・インタビューを通して次々と明らかにされる。
また、当たり前だと思っているものの大切さを思い知らされた。とりわけ民主主義や公平な法制度、所有の概念が貧困から抜け出す上で不可欠なのだ。しかし、援助によってむしろ独裁政権が延命されてしまう。
これについては先述の『大脱出』で詳しく解説されている。
民主主義国家では、有権者からの直接のフィードバックが政府の実績を評価する。(中略)このような形のフィードバックは民主主義国家でもっとも効力を発揮するのだが、資金を集める必要性はどこにでもあり、その必要性によって統治者が国民の少なくとも一部の要求に対応するよう迫られる場合が多い。大規模な援助の流入を疑問視する意見の中でももっとも大きいのが、援助によってこうした必要性が低くなってしまうというものだ。国民の合意のもとに資金を集める必要性がなくなり、有益な政治制度が有害な政治制度へと変わってしまうのだ。*1
TOMSという靴メーカーも批判されていた。この企業は「One for One(一足買うともう一足が貧困国に送られる)」というコンセプトで活動している。
確かに、一見すると倫理的で良い理念に思えるが、これによって地元の靴産業は破壊されてしまう。 最近では現地に工場を作るという活動も行なっているらしいが、この「One for One」のコンセプトは継続している。
セレブのメッセージも批判されていた。
特に槍玉に挙げられていたのはU2のボノで、彼は援助に積極的に関与している。援助に否定的な講演でボノが講演者にちゃちゃを入れるシーンも映し出されていた。*2
有害な援助が続けられてしまうのには構造的な理由がある。映画の中でも解説されていたが、『大脱出』ではより詳細に説明されていた。
一つには援助国側の国民が援助の結果が有害に終わったとしても、それを知る立場になく、また援助機関も説明責任を負わないからだ。
大統領が国会を無視したり、腐敗した警察組織の改革を拒否したり、自身の政治的立場を強化するために援助を流用したりしたら、援助国が援助を止められるようにはできないのだろうか? 問題の一つは、援助国と最終的な資金提供者であるその国民が、現地での援助の効果を実体験していないために正しい判断ができないということだ。*3
援助機関は寄付者に対する説明責任があるが、被援助国で何かがうまくいかなかったときに責任を取るような仕組みは存在しない。あるとき、私は非常に有名な非政府援助組織の幹部に話をする機会があった。世界のどの地域で仕事をしていることが多いかと聞くと、答えは「西海岸」だった。アフリカの西海岸ではなく、その組織の高額寄付者が多く暮らすアメリカの西海岸だ。*4
世界銀行の担当者は自分が実施したプロジェクトの結果が判明するはるか前に、とっくに次の仕事に移っている。援助者には、被援助者に対する責任は一切ないのだ。*5
もっと衝撃的で身の毛のよだつような事例もある。
ある公的援助機関の責任者が、殺戮者集団のもとへ援助資金が流れていくという身の毛もよだつような話を聞かせてくれた。すでに大量殺戮をおこない、もっと人が殺せるように武器を集めたり兵士を訓練したりしているような集団にだ。それでも援助を続けるのはなぜかと私は聞いてみた。すると彼はこう答えた。「私の国の市民は与えることが自分たちの義務だと信じていて、援助が害になるという主張など受け入れてくれないからです」。*6
じゃあどういう援助なら良いのか?
映画では、ものを与えるのではなく、技術や能力をつけさせるような支援が望ましいとし、アフリカの人々を雇って事業を行う白人夫婦が肯定的に紹介されていた。
悲惨な状況にある人を救いたいという援助の動機は素晴らしいものだが、解決はそれほど簡単ではなさそうだ。
ただ注意すべきなのは、考えなしの寄付は有害なので当然批判されるべきだが、寄付する人たちの徳や倫理性まで否定するのは間違っている*7。私自身はあまり寄付などしないのだが、する人は私よりずっと優れた徳の持ち主だし、誇るべきだと思う。
それに、今となっては有害性が明らかになっているし、明らかになった以上は止めるべきではあるが、しかし「やってみなければわからなかった」面もあるのではないだろうか。そういう擁護は一応できそうだ。
この件について言えることとしては、安易な寄付はせず、事前によく調べるべきだということ。間違った寄付は無益なんじゃなくて有害なんだから、しっかり調べることは絶対に無駄にならない。寄付先は独裁国家ではないか? 緊急性はあるか? 資金が悪用される恐れはないか?
寄付の結果どうなったかを見届けることも、選択を考える上で有効かもしれない。ただ、援助機関のレポートは自分のプロジェクトの成功を大げさに評価するかもしれない。少なくともその誘因は十分にある。経済や健康状態についての統計が参考になるかもしれない。
これは慈善事業の根本的な問題ではあるんだけど、寄付する人たちは悪い言い方をすれば「片手間」で寄付をする。寄付することを専門にしてる人なんていない。そして自分たちの寄付がどれだけ役に立ったかを知りたがるが、逆の情報に接しようとはしない。それも当然のことで、NGOもそれに沿った形で広報活動を行うし、メディアもその枠から敢えて出ようとはしない。
ちょっと無理やりな結論かもしれないが、グローバル化・情報化による問題と言えそうだ。我々は、自分が責任を負うことのない遠く離れた誰かに感情移入し、影響を及ぼすことができようになってしまった。一方で、つまり技術の進歩で見える範囲が行動できる範囲が広がったとしても、(生物学的な制約もあり)思考の枠組みはすぐに変わるわけじゃない。
そうは言っても、グローバル化が悪いと言っても仕方なくて……。
まあ、賢くなるしかないんだろうなあ。