回心誌

日々是回心

人類にとって発達障害とは何なのか

壮大なタイトルをつけてしまった。

 

この記事はあくまで個人的な見解であり、科学的な正確さを保証するものではない。批判は歓迎である。ただし、誹謗中傷や差別についてはこちらの判断で削除するかもしれない。

 

まず、簡単に自己紹介をさせてもらおう。私自身にとっての発達障害とは何か。

私は会社員である。自分自身、軽度の発達障害だと認識しており、医師ともその点で合意がある。ただし、正確な検査はしてもらっていない。一度医師に検査したい旨相談したが、「あなたが社会に適応することが大事なので、検査に意味があるとは思えない」と言われ、それ以来その話はしていない。

発達障害に気づいた(もしくは疑いをもった)きっかけは、就職後、仕事についていけないと感じたからだ。今も仕事に対しては自信がない。

 

さて、本題に入ろう。「人類にとって発達障害とは何か」。

人類はよく、「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」ということをよく考える。古今東西あらゆる宗教、哲学がこの問題について考えてきた。最近でも、人類史を一貫した視座で俯瞰する分厚い本がベストセラーになっており、関心が絶える様子はない。人類史の大きな物語の断面として自分自身を捉え、アイデンティティーを補強したり回復することにつながるのだと思う。

この記事を書いた動機として、私はこんなことを考えていた。発達障害者もまた、こういった大きな物語のなかに自分自身を位置付けることができるのではないか。そして、それによって発達障害者やその家族や関係者が不安やアイデンティティーの危機を和らげ、各自の人生を肯定的に解釈することにつながるのではないか。そうした解釈に向けて、科学が貢献できるのではないか、するべきではないか。

大きな物語の中で、発達障害はどのような存在なのか」。その答えのひとつの例として、自分の考えをここに書いてみた。本当はそういうことについて、専門家が普通の人に向けて書いた分かりやすい本があればいいと思っているんだけど、書店で見かける発達障害の本は「いかに社会に適応するか」を中心にしたものが多くて、自分のニーズにマッチした本にはまだ出会っていない。もちろん社会にいかに適応するかという問題も、それはそれで必要かつ有用だけど。

 

 

進化する生物としての人類にとっての発達障害

人類を含め、あらゆる生物は進化の産物である。進化とは、遺伝(生物の特徴が次の世代に伝えられること)、変異(特徴が親の世代から少し変わること)、選択(子を残す数や生き残りやすさに差が出ること)の結果、生物が環境に適応していくことである。誤解されやすいが大事な点として、生物は適応するために進化するのでなく、進化の結果として適応するのである。長大な時間スケールで生物の集団を俯瞰すると適応しているのだが、個々の生物が目的や意図をもって適応しているわけではない。

 

そして、発達障害もまた進化の産物である。まだ未解明な部分も多いのだが、環境と遺伝が複雑に影響しあって発達障害があらわれると言われている。

発達障害が進化的にある程度有利だったから我々に遺伝しているとする研究がある。普通の人と違う考え方をすることが集団を導くのに役立ったとか、多数派に付和雷同しないことが、その時々の集団の空気に流されない指針として、集団の安定性に役立ったとか言われている。

いずれにせよ、程度はあれ、発達障害をもたらす遺伝子は我々のDNAに、少なくない割合で埋め込まれている。少なくとも、発達障害が社会問題になる程度には。

我々がそのような遺伝子を持つのは、人類が進化を経て適応してきた生物である以上、避けがたいものなのだろう。

 

ここで誤解してほしくないのだが、進化的に有利だったから発達障害にも生きる価値があるといったふうに、かつて進化的に有利になり得る(なり得た)ことをポジティブにとらえて考えて欲しくない。四肢がない、寝たきりであるなど、自然状態においては有利になりようのない障害もあるが、それは生きる価値がないことを意味しない。進化的な有利、不利を現代における価値に換算するのは、容易に優生学的な考え方に結び付き、危険である。

 

社会に生きる人類にとっての発達障害

社会や文明の変化の速度は、生物が進化的に適応する速度に比べてとても速い。そしてその速度はますます加速している。

問題は、社会は多数派に合わせて変化するのに対して、(これまでの)人類は多様性を含んだまま進化してきたということだ。

 少し脇道にそれるけど、障害について私は次のように考えている。我々は、社会を暮らす上で不便な身体的もしくは精神的な特徴を持つ人を「障害者」と呼ぶ。その原因は遺伝的なものであるとは限らず、環境や偶発的な事故の場合もある。さらに踏み込んで私の考え方を表現すると、ある特徴が「障害であるか」は、社会が人々に何を要請するかによって変わってくる。

たとえば戦場で長く過ごした兵士は、平和な故郷で日常生活を送ることが難しくなってしまうことがある。皮肉にも、戦場に適応することがかえって日常生活を困難にしてしまうことすらある。

そういうふうに考えると、近年になって「障害」の範囲が広がってきた背景には、社会が人々に(特に働く人に)、高度なコミュニケーションや専門的な知識などなど、現代社会にしか存在しない複雑な物事を要求するようになったことがあるように見える。

もちろんそれだけでなく、社会福祉の充実や権利意識の浸透、科学技術の向上も大きな要因だ。人類の前向きな進歩によって多くの人が救われてきたことは間違いない。そして、全体としてみれば進歩が「障害者」も含めた人類にとって良いものだということも、おそらく間違いない。ただ、進歩によって「不便」になってしまう人も(もしかしたら過渡的なものかもしれないが)いるのだと思う。

 

進歩によって、人類のより多くが、より高い階段を上れるようになった。でも、中には階段を上るのが下手な人もいる。階段を上れる人は、いろんなものを生み出せる。でも上れない人は限られたものしか生み出せない。

いや、上る、上らないといった優劣を連想させるたとえは不適当かもしれない。多くの「健常者」「定型発達」が目指すところとは別の場所へ行きたがっている人たちが「発達障害」なのかもしれない。社会不適合者と言われるような人が科学者や経営者、芸術家として、さまざまな輝かしい業績を成し遂げることもある。普通の人には行けないような場所へ到達することで、社会を大きく発展させるのだ。

 

文明の進歩の歴史は、生物進化と共通している。みんなが同じことをしていては、飛躍的な進歩はできない。「みんなと違う」ことによって苦しめられたり、周りの負担になってしまうこともあるが、まさにそのことが生活を豊かにすることもある。それはちょうど生物進化において、突然変異が、確率的に言えばほとんどの場合、生物の寿命を縮めるとしても、その突然変異の仕組みによって長期的には生物は寿命を延ばしてきたという逆説的な事実とよく似ている。

 

ここまでの話をまとめよう。

・人間が「発達障害」を含む遺伝的な多様性を持つことは、人間が進化の産物であることに由来する。とはいえ、そうした多様性は概ね人類を適応させる方向に進む。

・社会は変化する。特に近年になるほど変化は激しい。そして、変化は多数派に合わせる方向で進む。

・社会の変化の結果、それまで適応的だったものが適応的でなくなってしまうことがある。場合によっては「障害」とみなされてしまうこともある。

・「障害」を含め、人々が多様であることは社会を進歩させる推進力である。

 

 

誤解されたくないのだけど、「進歩に寄与したから障害者は良い」と言うのではない。もちろん障害をものともせずに何かを成し遂げることは素晴らしい。しかし、ここで言いたいのは、人類の進化や社会の進歩には多様性が必要であり、「社会が変化すること」と「社会が多様性に満ちていること」「社会に障害者が存在すること」は原理的に分難できないのではないか、ということだ。

そして今後も、人類が乗り越えるべきハードルとして発達障害の問題はなくならないだろうと思う。

 

こんなことを考えたところで、何か世の中の現実の問題が解決するのか? もちろんしない。けど、多くの人は当たり前に自分が何者かを知っている。当たり前すぎて考えもしないかもしれない。だから発達障害者だって、自分が何者か考えてもいいんじゃないか。

 議論自体は穴があるなあと自分でも思う。もっと詳しい人に教えて欲しいと思うし、勉強したい。

 

 

おまけ)政治・経済と発達障害

なにが障害なのか、そして、障害者がどのように社会に適応していくべきなのか、という問題は、政治的あるいは経済的な影響を受けながら決まっていく。そのこと自体は、他のあらゆる問題と同じく、我々が社会に生きる以上不可避なことだ。

例えば、製薬会社が何の治療薬をどうやって売るのかは市場による制約を受ける。何かの症状を軽減させる薬を製造する製薬会社は自社の薬を効率的に売るために、その症状が「社会を生きる上で不便な障害」なのだと啓蒙する*1。単純に利益だけが目的ではないかもしれないし、企業が利益を求めることは良いことだと信じているが、結局のところ企業の役割は公益ではなく自社の利益にある。そして、それは原則的には企業として正しい姿だと言える。

治療方法を発見した人が利益を得る社会は正しいが、そうである以上、「本当は薬で直さなくても良いことなのに、薬に頼っているのではないか」という疑念は、当面の間は避けられないだろう。

 

*1:製薬会社が「機能不全」を発明した(でっち上げた)例として、女性の性的不感症がある。(女版バイアグラは必要なし | アメリカ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)「オーガズム・インク」というタイトルでドキュメンタリー化されている。