回心誌

日々是回心

公立中で授業妨害を受けた体験を「動物園」と表現するのは差別ではないと思ってるけど、実際のところどうなのかあまり自信はない

この記事はどんな人が書いている?

私自信は中学時代はやや田舎の牧歌的な公立中で、とくにイジメなどもなく過ごしたので、体験として「動物園」と呼ばれるの悲惨な教育を公立中で体験したわけではない(と、思う)(といっても、ほとんど覚えていないけど)。

このブコメの人に、同じ過去を共有しているよー、という形での共感はできない。ただ、私の友人にもいわゆる「荒れた」中学校出身の人もいて、授業中窓を見ていると上階から自転車が降ってくるのを目撃したという話を聞き、そのような中で学力を向上させるのは、さぞや困難なことだったであろうと思った。

このブコメの発言者がどのような体験をしたのか具体的には語られていない(調べてもいない)が、私の想像としては、授業中に私語やゲームをしている生徒がおり、それを教師も制止しない、真面目に授業を受けたい生徒にとっては居辛く、理不尽な思いが募るであろう状況が頭に浮かんだ。(このイメージは、『僕の小規模な失敗』とか、その他の漫画やら小説やらアニメやらドラマやら、それに知人友人の体験談などがぼんやりと組み合わさってできていると思われる。なにせ体験したはずのないことなので。)

そもそも日本はOECD諸国と比較して、教育に税金を使わないことが知られていて、ブコメでもその手の記事はたまにあがってくる。公立の学校で、学習に適さない状況が放置されているとしたら、まさしくそのような公教育の貧弱さの犠牲者であると言えるだろう。まあ、単に税金を投入すればいいとかそういう話ではないかもしれないが、いずれにしても、全ての国民に十分な教育機会を与えるべき行政が正しく機能していないという問題だと考えている。

ちょっと長くなってしまったけど、ここまでが私のバックグラウンドの紹介。

何が問題?

で、(具体的には語られていないものの、例えば私が想像したような)授業に相応しくない状況を差して「動物園」と表現したことについて、批判が巻き起こった。

具体的な意見をいくつか引用すると、例えば以下のものがある。

まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。 - naga_yamas のブックマーク / はてなブックマーク

公立中学にいるアホは動物のようだと差別してもよいの?黒人差別は悪い差別だけど、頭の悪い知的レベルの低い日本人は差別しても良い?

2020/12/09 10:15

まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。 - naga_yamas のブックマーク / はてなブックマーク

公立の学校を「動物園」て呼ぶのを「増田のブコメでもよく言われる比喩」なら使っていいと思っているんだね。ふーん。

2020/12/09 11:16
b.hatena.ne.jp

本当に差別なの?

まず、「動物園」が差別だとして、誰に対する差別なんだろうか。
以下の差別が指摘されていると考えた。
1. 全国の公立中出身者に対する差別
2. 頭の悪い生徒に対する差別

それぞれ、検討してみることにした。

1. 全国の公立中出身者に対する差別

だとすると、「動物園」のブコメをした人は、全国津々浦々の公立中全てをひっくるめて「動物園」呼ばわりしていることになる。うーん。そんなふうに読み取れない気がする。

そうでなくて、自分の体験した学級や学校生活を評して「動物園」と表現しているのだよね? たまたま自分の通っていた時期に、自分の地域の学校が荒れていたから「動物園」のようだったと表現しているように読み取れるけど、違うんだろうか。
当たり前のことだけど、学校が荒れているかどうかって、よほど精通している人でなければ、せいぜい地域の情報しか得られないわけで、あくまで自分の体験ベースで言っているだけだと思うけど。
それは私がそこまで荒れていない公立中の出身だからそのように感じているだけで、全国的に言うとそのような公立中は稀なの?

また、差別の問題って、単に不当な扱いがされたというだけではダメで、社会状況として不当に扱われ続けてきた差別の経緯があり、そのような中で個別の不当な扱いや差別的な表現がなされることによってさらに差別的な社会状況が再生産される、というフィードバックループの構造が重要だと考えているわけだが、では、公立中出身者が現に差別されているという社会状況があるのか?
(これから問題化していくのかもしれないが)軽くググった程度では、そのような社会問題は見当たらなかった。お受験板とかではそういうのがあったりするのかもしれんけど。

私立・公立に限らず、富裕層とそうでない層の間で、教育の機会が不平等やんけ!という問題があるのは分かる。けど、「動物園」という表現を使うことが、その不平等の固定化に寄与するとは思えない。むしろ、公教育の質の低さを告発する機能は期待できるかもしれない。

このブコメの人は自分の体験を公立中全体に勝手に一般化しており、それは言い過ぎじゃん、というのはなくもない。けどまあ、個別事例だというのは当然の前提であり、統計的な議論などは考慮しているはずもない。ブコメなんて大体そんなもんだ。実際は言い過ぎというほどじゃないくらい公立中の荒れ具合が全国に広がっているかもしれないし、それはよく知らん。

2. 頭の悪い生徒に対する差別

そもそも「動物園」という表現で、誰かを動物扱いして揶揄する意図があったかはちょっと微妙なところ。騒々しい状況をイメージする上で、わかりやすい言葉ではあるわけで。例えば、クラスが騒々しい時に、担任の先生が「動物園だ!」と一喝したからと言って、その親から「うちの子を動物扱いするんですか!」とクレームになったりはせんよなあ。

しかしまあ、誰かを動物扱いして揶揄する意図が仮にあったとして、それは「頭の悪い生徒」なんだろうか。

単に「頭が悪い」というだけで、授業を妨害しないのであれば、揶揄したりしないんじゃないか?
「頭が悪い」というのはいろんな解釈ができる言葉ではあるけどさ。単に成績が悪いということであれば、騒々しさをイメージさせる「動物園」という表現を選ばないだろう。

「授業を妨害する」人の中には「成績が悪い」人が多い、だから授業を妨害する人を揶揄することは、間接的に成績が悪い人を揶揄することになるんです、という理屈が出たりするかも。
そこからの類推でいくと、犯罪者が統計的に知能レベルが低い、という前提の元で、犯罪者を揶揄することは、間接的に知能レベルの低い人たちを揶揄することになるのか?いやそんなことないよなあ。

ちょっと話を戻すけど、「動物園」という表現で、授業妨害した人を動物扱いして揶揄する意図が仮にあったとして、それはもちろん褒められることではないとは思うが、授業妨害の被害者が加害者を揶揄するくらいのことは、許してあげてもいいんじゃねえの、という気持ちでいる。本当に悪いのは、そういう状況を放置している大人であって、生徒を悪者扱いしても仕方ない、意味がないと思っているけど、しかし、真面目に勉強したくてもできなかった「フザケンナ」という鬱憤が授業妨害していた生徒たちに向いてしまうのも、仕方ないのかも、という気もするよ。自分がそういう状況に置かれたとして、うまく消化できる自信はない。

そうだとしても動物扱いは差別だから止めるべき、という指摘はあるかもしれない。確かに、たとえ個人の体験にねざす鬱憤晴らしだとしても、それが同情に値するものだとしても、差別的な表現を正当化することは難しいだろう。
例えば、知的障害のある方への差別として、動物呼ばわりするものがあり、そうした差別を想起させる、など。これは今思いつきで提示しただけで、実際そのような差別があるかは分からないが、仮にそのような歴史があったとしても、知的障害のある方と授業妨害との間には関係がないわけで、やはり解離があるように思う。
詳しい人がいたら教えて欲しい。が、今のところそのような具体的な問題点を指摘するようなブコメは見当たらなかった。

「具体的な事例を挙げるまでもなく動物扱いは差別である」という意見がもしあるとすれば、それは飛躍していると思う。
例えば、暴力的な犯罪者を「ケダモノ」と表現することは、罵倒であるが、差別ではない。これは、「動物扱い」したからといって差別にあたるわけではないでしょ、という反例である。

ひるがえって

自分もリベラルや反差別を自認しているわけだけど、ある表現が差別的だと指摘する時には、どの層を貶める差別として機能するか、という点や、その表現にまつわる歴史的経緯について解説すると良いんだなーと思いました。


そう言う点を教えてくれると、この私のようなアホなリベラルにも、何が問題か分かるかもしれません。

「人文学は何の役に立つのか」について

s-scrap.com

これ読んだ。

 

以前からブログは面白く読んでいるんだけど、同年代で読書家で、すごいよねーって。これからも良い本を読んで紹介してくれると嬉しい。

 

 

ふたつめは、「"役に立つ"の定義とは何か?」と、質問を質問で返すパターンだ。これは特に哲学系の人がやりがちな反論であり、「哲学っぽい」反論であると言っていいかもしれない。

ふたつめの反応が「哲学っぽい」ものだとすれば、みっつめの反応は「社会学っぽい」ものである。

具体的には、以下のようなものである:「何かについて"役に立つのか?"と問うこと自体が、そもそも中立な質問ではなく、特定の立場へのコミットメントを示すものだ。もしその問いが人間に向けられたら、生産性のない人間は存在意義がないから生きていなくてもいい、という優生思想になるだろう。役に立ったり価値がなかったりしなければ存在してはいけない、という考え方自体が問題であるのだから、"役に立つのか?"という問いには答えないことによって、その根源にある功利主義的な考え方を否定すべきだ」。

メタ的な返ししがち問題、あーこれ俺もやっちゃうかも。

まさにそのメタな問いを立てられることがその学問の有用性ではあるわけだけど、この返答じゃ、横で見てたら納得できんわなーという。

 

山形浩生先生が翻訳してくれた、これ思い出した。

https://cruel.org/other/useless/useless.pdf

学問の推進力の中核には好奇心があって、有用性はそのおこぼれにすぎませんよと。

とっても力強い主張だけど、とはいえ、政策的な観点から言うと、有用性なり、何らかの基準で選別はしなきゃいかんわけだし、現にしてるはず。そういう意味では有効な回答ではないかもね。

これはどちらかと言うと、人文学というより、イグノーベル賞的なやつの話っぽいかな。

 

あと、ちょっと前に読んだ、戸田山先生の『教養の書』も思い出した。人文学と教養って、かなりの部分重なってると思うので。

あれ、でも、教養の意義について書いてあったはずだけど、あんまり思い出せないなー。

教養があれば人生楽しいじゃん!というのは書いてあったと思うけど、他にもあったかな。うーん。もう1回読まないと。

人生楽しくなるから教養(もしくは人文学)を身に着ける、という考えについて考えてみると、一見、強力そうに見えるけど、しかし政策として同意が得られるか、というと難しそうかなあ。「俺は本も映画も見んし何が面白いかわからん」って人は多かろうから。

 

クリッツァー氏の元記事では、人文学によって批判的思考力と想像力を養うことができる、とした上で、それらが健全な民主主義を営んでいく上で必要だと結論づけた。

民主主義の社会に暮らす市民として批判的思考能力と想像力を発揮することは、地域自治というレベルでも国政というレベルでも有益な選択につながるという点で、社会に貢献していると言えるだろう。

ディストピア小説なんかで、まさに人々から批判的思考力、想像力を奪い取っているのは、この結論を裏側から支持しているように見えるね。『1984年』で言葉を奪ったり、『華氏451度』で本を奪ったり……。

 

※ ちょうどたまたまsaebou先生がディストピアの読み方についてツイートして、ちょっと盛り上がってるので。

 

では民主主義を採用しないとすれば、人文学は不要になるのだろうか。そんなことないような気もする。

人文学が市民に浸透しているけどディストピア、という社会はありうるのか? 思考実験してみると面白そう。

1つのパターンとしては、人文学が形骸化して、結局のところ批判的思考力や想像力を養うのに役に立たないというやつかなあ。

 

1つついでに。

コロナに関連して下の記事で、倫理学者の児玉聡が登場していた。

医療現場で誰かを犠牲にせねばならない、という問題なんかは、いかに科学が発展してもそうそう無くならんやろう。

倫理は哲学分野の中では応用が効きやすいっていうのはあるけど、人文学が実際役に立ってる一例だな、と。

www.asahi.com

教養の書

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