回心誌

日々是回心

功利主義、法学たんさんの宿題

功利主義が最強……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました

皆さんへの宿題

その1 快楽を共通の単位で測定することは可能なのか。
その2 そもそも快楽とは何なのか。
その3 高尚な文学を嗜む快楽と、俗物的なTV番組を見る快楽の価値は等しいのか
その4 薬物注射を個人に強制すれば快楽は増進するかもしれないが、それは正しいのか。
その5 飲酒や喫煙といった、いずれ健康を害してその人の幸福を減少する行為をどうコントロールすればよいのか。本人の自由に任せておけばよいのか。
その6 快楽計算の対象は人間だけか。動物や自然は含まれないのか。

素人なりに考えてみようと思う。

その1について、危機に瀕した一人の生命と、大勢の人たちの快楽(それを止めても死ぬわけではない)とを比較できるだろうか。
あなたと他の3人はワイン愛好家で、ある日ワインを嗜む会に居合わせた。景色のよい崖の近くでワインを嗜んでいた。さて、ワイン愛好家のうち1人が酒に酔いフラフラと今まさに崖から落ちそうになった。このとき、あなたを含む残り3人のワイン愛好家たちはワインを置いてその人を救うべきだ、ということには多くの人が同意するだろう。この崖に落ちそうになっている誰かが全くの赤の他人でも、多分そうするだろう。
ここで、3人がn人になったらどうなるか。もし生命とワインの快楽とが比較可能であるとすれば、生命の価値をl、ワインの快楽をwと置いて、n\times w > lという不等式を考え、何人のワインを飲む手を煩わせるなら命を見捨てることが許されるのか、ということを決められることになる。
直観的にはこれは不条理で、私はこのような著しく性質の違うもの同士で功利計算を行い比較することに格段の注意が必要だと考える。生命と嗜好はそれぞれ別の次元にあるものとして量的な比較をせず、生命が必ず優先するとしたほうがよいと思う。生命同士、嗜好同士のように同じ次元であれば比較可能だが、違う次元では比較を行わない、ということだ。つまり、共通単位での測定には反対する。
これは伊勢田哲治が提案していたものだと思う。あらゆる政治的、倫理的判断に功利主義を採用するのではなく、直観的には判断できないような場合にのみ功利主義を使おうという立場だ。

わたし自身は、はっきりした直観が存在する領域においては功利主義は直観に道を譲り、直観的規則どうしが対立する領域においてのみ功利主義的判断を下そうとする、という「未確定領域功利主義」という立場を提案し ている。

その2はちょっと手に負え無さそう。経験的に、原理原則の最も根本的な部分をこうと一元的に決めるのはリスクが大きいと思ってしまう。
ある種の脳のスパイクが快楽であるなら、脳を水槽に浮かべて電極を刺し、そのようなスパイクを発生させ続ければいいのか。まあこれは実現可能性から言って今論じるべきか疑問。それは悠長すぎか?

その3は、その1の共通単位で測定できるのかという話と関連する。で、その1で述べたように分けることもできるとは思う。でも必ずしも分けなくてもいいのでは、とも思う。

その4。薬物注射は個人の短期的な快楽をもたらすが、長期的な快楽をもたらさないのではないか。
また、個人の快楽をもたらすとしても、集団の快楽を減少させるのではないか。これは囚人のジレンマ共有地の悲劇といった協力・裏切り問題の図式に当てはまるのでは、という意味で、全員に薬物注射したらどうなってしまうのかということだ。

その5はその4と似ているが、パターナリズムとの関係について考察せよということだろう。
適切な判断能力を持たないとか、酒におぼれて将来にわたっても判断能力を養う機会を失ってしまうとかいう人たちについては一定の制限があって良いと思う。未成年や中毒者がこれにあたる。
また、健康被害等について判断するための情報にアクセス可能にする必要もある。
しかし、最終的に利益や害悪を判断するのは個人が行えばよいと思う。理由は3つあり、まずアンダーグラウンドで横行することになりコストの割に利益がないこと。2つ目は判断の機会を奪うことで市民として必要な学習能力が損なわれてしまうこと。そして3つ目は多様性が損なわれること。多様性が損なわれるとどのような不利益があるのか。多様性のないシステムは状況の変化に対応できず、長期的なスケールで見ると必ず没落する。

その6が難しい。
日本は遅れているが、現状動物実験について規制を行っている国は多い。もし動物の生命などにも広げるとすれば、現に牛肉なども食べられなくなるかもしれない。少なくとも、「殺さなくても我々は生きていけるのだから」というベジタリアンの主張には私は説得力を感じてしまう。それでもおいしいので私は肉を食べているが。
もっとラディカルな立場になると、エントロピーを媒介して情報にまで一般化するものもある*1キュウべぇかよ! 技術の発展などの状況変化によって、いずれこうした考え方も支持される可能性はあると思っているが、そうなったときに規範の違いから摩擦が生じるのではないかと危惧してみたり。
結論は出せないが、考えるとっかかりとして。もし人類よりはるかに知能や技術力の高い宇宙人がやってきて、「君たち人類は我々よりアホなので家畜として利用することに何のためらいもない」と言われたら人類は困ってしまう。倫理の黄金律であるところの「他人にされて嫌なことは自分もするな」に従うなら、知能で優っているからといって人類が動物に対してなんでもしていいというわけではない、ということになる。
この辺りは功利主義に限った話ではなくて、不勉強なので、ピーター・シンガー『動物の解放』を読んでみたい。

*1:西垣通;竹之内禎 編著訳『情報倫理の思想』