なんか宮台ウォッチブログみたいになってしまっているな……。
宮台はポニョは絶賛してたと思うけど、こっちは厳しい。
- 宮崎監督は子どもが見ないからといって嫌がったが、鈴木プロデューサーの説得があって製作された。
- 正直に言って、つまらんかったです……。
- 良いところを先に言うと、戦間期の風景が美しく素晴らしい。風が描かれている。アニメーターとしての本懐を遂げた
- 『風立ちぬ』の原作が糞。絵空事の私小説、ご都合主義的な展開。セカイ系と一緒。
- 映画は原作のダメな部分がそのまま引き継がれていた
- 後に妻となる女性菜穂子があまりに適当に描かれている。パンフレットの設定表には「美しい明るい少女」とだけ! 宮崎は女性が描けない問題。異性愛規範=男性から見たセカイ系的女性像
- 結婚式のシーンは美術的には素晴らしかったが、菜穂子のキャラクターの不足を補うものではない
宮崎駿の女性描写について責めるのは今更という感じがするんだよなあ……。
- では主題は何か?
- 宮崎駿は戦闘機大好き、戦死もの大好き、戦争は大嫌い、技術は大好き、IT的なものは大嫌い。この矛盾こそ宮崎の批評的な部分。
- なぜ堀越二郎が良い戦闘機を作る事が出来たのか?堀越二郎が美の感覚、または美がひき起こす目眩に関心を持っていたから。
- 人によっては、微に関心のある人間がよく知らないままに戦争に巻き込まれた、または戦争をブースとしてしまったと考える事もできる
- 戦間期の日本ではドイツとの技術的ギャップを埋めることが目指された
- 普通は美と力を分ける
- 力と美は一体。機能するものは必ず美しい
- 美を追求すると戦争機械の魅惑につながっていく。これはモノと人間との間にもともと存在する問題で、日本人や堀越二郎だけが持っているわけではない
- 僕たちが力に魅惑されるのは浅ましい権力欲とは別の次元の問題として存在する
- そこにちょっと触れている点は肯定して良い。
- でも戦間期のことがはっきり分からないと、観ている側はその部分は理解できない
- 戦間期には田舎と都会、光と闇が交錯したような、魅惑的な空間があった。そういう感じを描くべきだった。
- それがきちんと描かれないから、堀越二郎が美的な感覚を持っていたから強い戦闘機を作れた、みたいなショボい話になってしまっている。
美と力の関係についてはナルホド!面白い。バウハウスがどんなものかはちょっとググってみれば分かるけど、ドイツのデザイン学校で、1919年設立で1933年にナチスに閉鎖されたらしい。画像検索してみると(→google:image:BAUHAUS])華美な装飾は一切取り除いてシンプルなんだが、しかし工芸品としての自然な美しさがあることがよくわかる。まあちっとも詳しくはないんだけど、個人的にはLAMYのペン(→[google:image:lamy)なんかがバウハウスっぽいなあと思ったり。まさしく機能美という言葉で言い表されるような
でも、なぜ戦間期の魅惑を描くことと機能美の話とどうつながっているのか、残念ながらよく分からなかった。時間もなかったようで仕方がないが。
戦間期とは第一次世界大戦と第二次世界大戦との間の期間のことをさすらしい。この時期の日本には、恐慌や震災があり、生活は苦しかったというネガティブなイメージが強い。『風立ちぬ』公式ウェブサイトのストーリーにもこのように書かれている。
大正から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。
また、宮台が指摘した田舎的なものと都会的なものが渾然となった状況についても格差というネガティブな印象が当時からあり、丸山眞男『現代政治の思想と行動』の「日本ファシズムの思想と運動」を読むと、そうした状況がファシズムに利用されたこともよく分かる。二・二六事件の青年将校も、地方農村の窮状を天皇陛下が許すはずがない、ということで決起した*1。
そうしたネガティブなイメージにとらわれていては機能美の本質に気づくことができない、ということだろうか。宮台の言うような戦間期の魅惑的な側面をサポートする資料があったらいいのに、と思う。機会があれば積極的に調べてみよう。
(2013-08-23追記)
町山智浩のレビューを見つけたので、リンクを置いておきます。
美と力の関係について、「男の子の病」と表現していて、あんまり普遍的な問題として捉えていないようにみえる。
まあ、それがいいのか悪いのかは置いといて、どちらも自分の立場に引きつけてレビューしてるのは面白いなあ。