回心誌

日々是回心

安倍総理、参院選2013 日本記者クラブ主催 党首討論会 (2013.7.3)より

記者:歴史認識問題でズバリ聞きたいんですけどね、第二次世界大戦で日本は朝鮮半島を植民地支配したのかどうか、これが第一点。もう一点は、中国大陸を侵略したのかどうか、これ第二点です。これ政治家の言葉として定義しておりませんか。
(中略)
安倍総理:歴史というのは様々な側面がありますし、どう判断していくか、ということはこれは相当の知恵と見識が必要なわけでありますけれども、同時にそういう判断、定義をしていく上で、その判断自体が政治問題、外交問題になっていくんですね。ですから、それは政治問題、外交問題になっていくことを前提に計算しながら歴史を読み解いていくのは私は間違っていると思いますね。
(中略)
だからこそ私は歴史家に任せるということをずっと言ってきているわけで、これからもそれは歴史家に任せていくべきだろうと思います。
例えば、総理大臣の私が歴史に対してはこうなんだ、という態度は謙虚ではない。歴史に対してはいわば政治に係るものは謙虚でなければならないと思います。

 歴史は客観的に判断されるべきもので、そこに政治的視点を持ち込むと混乱のもとになるから触れるべきでない、というこの考え方は一件正しそうに見える。しかし、政治判断をしない、という政治判断なんだけどなあ、結局……。
 意思決定は、判断の根拠となる情報を集める、推論など論理を組み立る、などの中立的、客観的であるべきパートと、最終的に自分の価値観に基づいてどうするか決める、という客観的たりえないパートがある。前者については可能な限り価値観を取り除くことで正しい決断をしやすくなる。要するに、結論ありきで情報収集や論理構成を考えるのは欺瞞であるということだ。
 なので、歴史的な事実がどうなのか、という真実の探求において政治的価値観を反映させてはならないという意味では賛成する。しかし、だからといって探求の結果得られた情報から価値判断すべきでないという話にはならない。政治問題にすることで歴史の探求に重大な影響が出てしまうのだということはありうる考え方だが、だから歴史と政治の交叉する問題について判断できないとすれば、一体どうやって歴史から学ぶことができるだろうか。
 要するに、客観的に提示される(べき)前提情報と判断の主体であるその人自身の価値判断とを分離していないところにこの発言の問題がある。
 もちろんそれは究極的には分離不可能なものでもある。おかしな判断をされるくらいなら判断をしないほうが国益にかなうということもあると思う。しかし、もし判断しないとすればそれもまたひとつの政治判断になってしまうのだ。なにせ、日本政府としてはすでに侵略と植民地支配についてはっきりと認めており、判断しないとしても政府の公式見解と矛盾する立場になるからだ。
 アベノミクスにしても、最終的に安倍総理は金融緩和などの政策を決断したのだ。経済学にも色んな学説がある中でその立場を選んだのは安倍総理自身だ。アベノミクスは採用することで色んな利害がうまれるという意味で紛れもなく政治問題だが、だからといってどの経済学上の学説にコミットするかを判断してはいけないということにはならないだろう。

記者:過去の例を見てもね、中曽根さんはちゃんとそういう判断をしてきたし、小泉さんも判断をしてきた。
でも、安倍さんは今のようなおっしゃる言い方で判断を示さない。それはある意味では自身の無さの現れなのか、それとも別のことがあるのか、いかがでしょう。
安倍:中曽根総理はそういう判断を総理大臣としてはされてませんよ。
記者:侵略と植民地支配という判断をされてます。
安倍:いや、されてませんよそれは
記者:過去の……
安倍:いや、あの総理大臣としての答弁としてはされてませんよ。
記者:答弁としてされてます。じゃあそれは水掛け論になりますけども……。

首相就任後、戦争に関しては1985年10月29日衆議院予算委員会での東中光雄委員との質疑応答において、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点をあげた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、アメリカ、イギリスとは普通の戦争だった、中国、アジアには侵略、韓国には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた[5][6]。

 少なくとも中国に対して侵略戦争だったとは言っており、また併合は植民地支配と言ったかは分からないが、帝国主義的行為だと言ったようだ。

 国のために戦い命を落とした人たちのために祈り、そして尊崇の念を表する。私はこれは当然のことなんだろうと思いますし、非難されるいわれは無いんだろうとこのように思います。
 そして、靖国に眠っている兵士たちが国のために戦ったのであって、これはアーリントン墓地には北軍と南軍の兵士が眠っています。そこにいわば行って亡くなった兵士の冥福を祈る。まあ大統領も祈りますね。しかしそれは南軍の兵士を祈るからと言って奴隷制度を肯定するわけではないわけであって、そこに眠っているのはそうした理念では無くてただ国のために戦った兵士たちの魂なんだろうとこのように思います。これが私の基本的な考え方であって、今靖国問題について行く行かないと言うこと自体が外交問題に発展をしていくわけでありますから、今そのことについて申し上げるつもりはありません。

 もし靖国神社の立場が多くの日本人に共有できるものであるなら、そうでないとしても少なくとも中立的であるならこのような言い方もできるだろうと思う。まず、国のために戦い命を落とした人たちに冥福や尊崇の念をささげることも悪いことではないと私も思う。しかし、日本政府としては虚構であるにせよ東京裁判で戦争責任を手打ちにし、それでもって諸外国との関係を築いてきたことも事実である。また、靖国神社の合祀を誇りに思う遺族もいれば、反対する遺族もいる。
 一宗教法人に対して一般市民が信仰を持ったりその他ある立場を表現することは全く持って自由である。しかし、日本政府を代表する者にそれは通用しない。日本では一個人がナチスに敬意を表しても法的に罰があるわけではない。しかし、政府要人にはそれは許されない。
 なお、アーリントン墓地には南軍・北軍の兵士が眠っているとのことだが、靖国神社においては戊辰戦争明治維新西南戦争戦没者について官軍の兵士しか祀られていない。