これ読んだ。
以前からブログは面白く読んでいるんだけど、同年代で読書家で、すごいよねーって。これからも良い本を読んで紹介してくれると嬉しい。
ふたつめは、「"役に立つ"の定義とは何か?」と、質問を質問で返すパターンだ。これは特に哲学系の人がやりがちな反論であり、「哲学っぽい」反論であると言っていいかもしれない。
ふたつめの反応が「哲学っぽい」ものだとすれば、みっつめの反応は「社会学っぽい」ものである。
具体的には、以下のようなものである:「何かについて"役に立つのか?"と問うこと自体が、そもそも中立な質問ではなく、特定の立場へのコミットメントを示すものだ。もしその問いが人間に向けられたら、生産性のない人間は存在意義がないから生きていなくてもいい、という優生思想になるだろう。役に立ったり価値がなかったりしなければ存在してはいけない、という考え方自体が問題であるのだから、"役に立つのか?"という問いには答えないことによって、その根源にある功利主義的な考え方を否定すべきだ」。
メタ的な返ししがち問題、あーこれ俺もやっちゃうかも。
まさにそのメタな問いを立てられることがその学問の有用性ではあるわけだけど、この返答じゃ、横で見てたら納得できんわなーという。
山形浩生先生が翻訳してくれた、これ思い出した。
https://cruel.org/other/useless/useless.pdf
学問の推進力の中核には好奇心があって、有用性はそのおこぼれにすぎませんよと。
とっても力強い主張だけど、とはいえ、政策的な観点から言うと、有用性なり、何らかの基準で選別はしなきゃいかんわけだし、現にしてるはず。そういう意味では有効な回答ではないかもね。
これはどちらかと言うと、人文学というより、イグノーベル賞的なやつの話っぽいかな。
あと、ちょっと前に読んだ、戸田山先生の『教養の書』も思い出した。人文学と教養って、かなりの部分重なってると思うので。
あれ、でも、教養の意義について書いてあったはずだけど、あんまり思い出せないなー。
教養があれば人生楽しいじゃん!というのは書いてあったと思うけど、他にもあったかな。うーん。もう1回読まないと。
人生楽しくなるから教養(もしくは人文学)を身に着ける、という考えについて考えてみると、一見、強力そうに見えるけど、しかし政策として同意が得られるか、というと難しそうかなあ。「俺は本も映画も見んし何が面白いかわからん」って人は多かろうから。
クリッツァー氏の元記事では、人文学によって批判的思考力と想像力を養うことができる、とした上で、それらが健全な民主主義を営んでいく上で必要だと結論づけた。
民主主義の社会に暮らす市民として批判的思考能力と想像力を発揮することは、地域自治というレベルでも国政というレベルでも有益な選択につながるという点で、社会に貢献していると言えるだろう。
ディストピア小説なんかで、まさに人々から批判的思考力、想像力を奪い取っているのは、この結論を裏側から支持しているように見えるね。『1984年』で言葉を奪ったり、『華氏451度』で本を奪ったり……。
※ ちょうどたまたまsaebou先生がディストピアの読み方についてツイートして、ちょっと盛り上がってるので。
あのさ「ディストピア作品を紹介しても学生が「中国みたい」とか言って全然日本と結びつけない」という問題を、他の先生と困ったもんですねって話したんですけど、田野先生 @tanosensei のファシズム実験授業みたいにモダニズム文学の実験授業としてディストピア発見実習をしたらどうかな…
— saebou (@Cristoforou) 2020年12月6日
では民主主義を採用しないとすれば、人文学は不要になるのだろうか。そんなことないような気もする。
人文学が市民に浸透しているけどディストピア、という社会はありうるのか? 思考実験してみると面白そう。
1つのパターンとしては、人文学が形骸化して、結局のところ批判的思考力や想像力を養うのに役に立たないというやつかなあ。
1つついでに。
コロナに関連して下の記事で、倫理学者の児玉聡が登場していた。
医療現場で誰かを犠牲にせねばならない、という問題なんかは、いかに科学が発展してもそうそう無くならんやろう。
倫理は哲学分野の中では応用が効きやすいっていうのはあるけど、人文学が実際役に立ってる一例だな、と。