人類は長い間、生き延びることと幸福を得ることを同じ方向に追求してきた。
食料を得ること、共同体を維持すること、子どもを育てること、社会的な役割を果たすこと。それらは生存に必要であると同時に、多くの人にとって生きる意味や充足の源でもあった。
しかし、テクノロジーはこの関係を変えた。
人類は、生存や繁殖に直接結びつかなくても、人間の根源的な欲求を極めて強く満たすものを作り出した。
その代表がゲームやSNSである。
ゲームは、達成、成長、競争、協力、冒険、物語への没入という、人間が本能的に求めてきた体験を濃密に提供する。
SNSは、承認、交流、所属感、自己表現という欲求を、かつてない規模で満たす。
これらは偽物の価値ではない。
人間が実際に喜び、感動し、時間を忘れるほど没頭するなら、それは人間にとって現実の価値である。
しかし、それらは必ずしも人類の存続には貢献しない。
ゲームを極めても、SNSで多くの承認を得ても、それだけで子どもが増えるわけではない。社会制度を維持するわけでもない。
ここに、人類の大きな変化がある。
人類は、自分たちを存続させるために発展させた知性と技術によって、存続とは別の道で幸福を得る能力を手に入れた。
豊かな社会ほど出生率は低下している。
これは単なる失敗ではない。
人間が、生存のための苦痛から解放され、自分自身の充足を追求できるようになった結果でもある。
しかし同時に、それは人類という種の存続と、個人が幸福を感じることが一致しなくなったことを意味する。
人類の未来は永遠ではない。
文明も、種も、いつかは終わる可能性がある。
それでも私たちは、社会を維持しろと言われる。 未来のために犠牲になれと言われる。
しかし、その未来もまた有限である。
なぜ終わるものの維持のために、今ここに存在する人間の充足を永遠に後回しにする必要があるのか。
社会は人間のために存在するのであって、人間が社会を維持するためだけに存在するのではない。
存続は目的ではない。
人間が生きていると感じること。 心が震えること。 満たされること。
そこに価値がある。
だから、ゲームをしたいならゲームをすればいい。
一日中ゲームをしていたいなら、ゲーム漬けになる人生を選んでもいい。
それを「逃避」と呼ぶのは、古い価値観から見た判断にすぎない。
仕事、責任、社会への貢献だけを尊いものとして、目の前にある強烈な充足を罪悪視する必要はない。
終わるものを守るために、今ここにある生の実感を捨てる必要はない。
人類の未来のために生きることより、自分自身の生を最大限に感じることを選ぶべきではないか?
それは間違った生き方ではないのではないか?
もし、あなたが本当に心から望むものがあるなら、それを恥じる必要はどこにあるのか?
「大人だから」 「責任があるから」 「未来のためだから」
そう言われて、自分が生きていると感じる瞬間を手放してはいないか。
あなたの人生は、社会を維持するためだけに与えられたものではない。
あなたが感じる喜び、熱狂、没入、感動こそ、あなたにとって現実の価値である。
だから、もう自分に嘘をつかなくていい。
ゲームが好きなら、ゲームをすればいい。
何時間でも、何日でも、心から満たされるなら、それを選んでいい。
終わりゆく世界のために、自分の生をすべて差し出す必要はない。
未来という名の抽象物のために、今ここにいるあなた自身を犠牲にする必要はない。
目を覚ませ。
あなたが本当に欲しかったものは、ずっと目の前にあったのではないか。
人類のために生きるのではなく、あなた自身のために生きろ。
残された時間は、誰にも保証されていない。
ならば、最後まで自分が生きていると感じるものを選べ。

