- 麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html
詳細を文章で読んでもよくわからなかったが、音声を聞いてなんとなく分かった*1。もちろんあくまで私の解釈にすぎないが、ナチスを引合いに出して言いたかったのは、マスコミが騒ぎすぎるとワイマール憲法の改正のようなことが起きてしまう、ということだろう。つまり、マスコミはワイマール憲法の改正から教訓を得て、あまり騒ぎすぎないようにするべきだ、ということだ。聴衆の反応も「(靖国問題を)いつから騒ぎにした。マスコミですよ」の直後が大きく、それに続く「あの手口学んだらどうかね」で笑い声が起こっている。聴衆も多くがマスコミ批判として受け取ったからこそ、このように反応したのだろう。
ただ、小田嶋が指摘するように、結局何が言いたいのかはよく分からないというのが誠実で、読み手や聞き手がそれぞれ勝手に自分の解釈したいように解釈しているだけなのかもしれない*2。
しかしいずれにせよ、WSJ東京支局長ジェイコブ・スレンジャーが言ったように、結果から言えば誤解を招いたことは失敗だった。
普通、教訓を得る、という意味で「手口学ぶ」とは言わない。音声を聞く限り、皮肉をこめて聴衆の笑いを誘うことには成功しているかもしれないが、ある種の身内だから笑ったのであって、そうした環境もまた対外的な感覚を失わせる原因になったのかもしれない。すなわち、普遍的に誤解のない言い方よりも、その場の「空気」に通用すれば良いという日本式政治感覚が失敗の原因なのだと思う。
さて、例のナチス発言は、次のようなマスコミの後に続いてなされた。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。
国にとって都合の悪いことについて、マスコミは騒ぐな、といいたいのだろうか。そのような意図があるとすれば、ただちに明らかに問題があるとは言わないが、少なくとも論争のタネにはなる、と書いておきたい。
マスコミ報道を含めた表現の自由は、基本的には市場原理によって選別される。だが、言うまでもなく、表現の自由は他の自由や権利と衝突すれば、道を譲ることもある。例えば、プライバシーやわいせつ物がそうだ。その意味では、国益を損なうような報道をするべきではない、という立場はありえないわけじゃない。
以前もブログで紹介したが、アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンは『インターネットは民主主義の敵か』を書いた。彼はこの本で政府による情報の規制を提案した。インターネットの普及により、人々は自分の好きな情報を選別し、読みたいものだけ読むことができるようになってしまう。市場原理による淘汰が過度に進み、民主主義に不可欠な、立場の異なる人との議論ができない。これを憂慮し、情報の選別を市場原理のみに任せるのでなく、有益な情報交換ができるように規制するべきだ、と主張する。
ただし、このような規制を行う場合は、中立でなければならないとも主張した。サンスティーンは中立の形態として以下の三つを挙げた。
- 言論内容に関して中立なかたちでの規制。
- 言論内容を重視しても特定の視点を差別しない。児童ポルノなど。
- 視点差別(Viewpoint discrimination)。人種差別の規制など。
靖国神社参拝も憲法改正も、上の三つに当たらない。マスコミは自分の価値を高めると思うことを報道するべきだし、結局のところ市場原理に支えられている。
それに、狂騒と言っても国家を礼賛するものと否定するものとではベクトルが全く逆だ。政府を批判するマスコミについて「批判するな」というには、かなりのハードルを越える必要があるだろう。
2013年8月4日追記
後半(43分頃から)で麻生のナチス発言を扱っている。
あの麻生発言について、ナチスを「熱狂してはいけない」教訓として使っていない、「静かにワイマール憲法が変わった」と発言したとしている。個人的にはそうは思わないけど、まあ、あの感じでは結局よく分からない。
憲法はお祭りの中騒ぎの中変えちゃいけないのかと言うと、逆で、憲法はお祭り騒ぎの中で変えなきゃいけないものなんですね。それは、エーミル・デュルケムだったら集合的沸騰と言いますし、ルソーだったら一般意志の形成って言いますけど、つまり歴史的なイベントとして意味があるような憲法改正でなければ、それが先人たちの意志だったとして未来から過去を参照してもらえないんですね。
たまたま多数決でとか、たまたま国民投票で多数だったので静かに変わってしまったみたいなものでは憲法意志として参照されない、正統性がないわけなんですね。
ワイマール共和国のもとでポピュリズムが国民を支配することで熱狂の元で独裁者が登場しないためにはどうしたらいいのか。ヨーロッパでは悲劇の共有といいますが、何のための何に向けた熱狂であるのかというのがそこで問われるんですね。
逆に言えば、フランス革命、アメリカ革命のように悪辣な政治家を倒すための、あるいはダメな統治権力を打ち倒すための、国民がそろって立ち上がったという形が必要なんですね。不合理性を許さない、悪辣な権力を許さない、あるいは国民が裁くぞ、という方向での立ち上がりが必要なんですね。
そこでも立憲主義の本文をわきまえていらっしゃらないな、というふうな感じがします。
日本以外の各国では何度も憲法改正がなされているが、どれもお祭り騒ぎの中で決められたのだろうか。そうでないなら、理想的な改正ではなかったのだろうか。
話題の麻生発言、全文書き起こしが欲しいところではあるが、報道されている限り(1)どのような改憲の環境が望ましいかという点ではあり得る意見だと思うものの、(2)事実関係の理解は完全におかしい、ということかと思う。それぞれへの反応を切り分けるのも重要。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 31, 2013
《静かな環境》での改憲が望ましいという立場の根拠も二通りあり、一つは人民は愚昧なので能力的or血統的なエリートたちが決めるべきというもの。もう一つは、人民の意思が大事なのだが短期的な熱狂ではなく長期かつ永続的な意思を熟議などによって形成していくべきというもの。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 31, 2013
念のために言うと、貴族階級がこの国の人民の長期かつ永続的な価値観を反映・代弁しているのだよとかいって両者を結合する立場もあるので完全に切り離せるわけではない。しかし後者は民主政原理とも矛盾しないし、むしろ民主政支持者で短期的熱狂を支持する立場の方が稀だろう。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 31, 2013
その意味で、いや事実関係の理解についてはどうにもアカンのではないかと思われるところ、改憲を論じるなら《静かな環境》であるべきだという点は十分にありえる主張だろうという印象。ヒートアップした側の見識が問われることにもなりかねないので、注意。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 31, 2013
2013年8月8日
麻生発言に関連して、ナチス政権の成立についての歴史的事実を確認している。
*2:麻生さんの「真意」のゆくえ http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20130802/360286/