回心誌

日々是回心

ソブリンって何?、リベラル批判

 1つの考え方は、日本という言語や文化を持った文化圏(エスニシティー)は不変だが、統治機構という意味での国家(ソブリン)は変化したという見解です。日本国政府は明らかにそのように行動していますし、国際社会からもそのように認知を受けていると思います。

なんとなく言っていることは分かるような気もするんだが,ソブリンってそもそもなんだ?
英単語としての sovereign には主権者,君主,元首,統治者といった意味があるらしい*1.主権国家という単語は sovereign state の訳語であるらしいから,主権 sovereignty と理解して良さそうだが,いや単に主権と書けばいいところでカタカナを使うことには何か意味があるのかもしれない.
明治憲法は君主権の強いプロイセン憲法を参考にした,と習った.明治憲法制定以降も主権についての論争は続き,そこから民本主義天皇機関説が生まれた.
現行憲法では主権は国民にある.という意味で,確かに主権は変わった.

でも,多分ここで言われるソブリンはそういう意味ではなさそうだ.

 一方で、これに反対する「リベラル」の勢力はどうでしょう? 彼等はいわゆる「保守」への批判、特に「保守の抱えている戦前との一貫性」への批判には熱心です。例えば今回の麻生副総理の「ナチスの手口に学べ発言」などが発生すると、政争の力学という意味もありますが、大変な勢いで批判をするわけです。
(中略)つまり「自分たちは戦後の新しいソブリンを作って行くんだ」という責任感というよりも、「現在の政権は戦前の悪しき正統性を引きずっている」という批判で済ますことによって、間接的に「政権の戦前からの一貫性」を認めているわけです。

確かにあのナチス発言への反応は過剰だったと個人的には感じている.麻生発言はそもそも要領を得ないもので,どういう意図なのか判然としない.ただ,ナチスについて多少は歴史的事実の確認が広まったのではないかと思う.恥ずかしながら私もよく知らず,下のポッドキャストは参考になった.

ナチスはさておいて,たしかに,リベラル側は日本国を維持するために不可欠な部分まで批判してしまい,それが不毛な論争を呼んでいる点は否定できない.この根本的な原因は戦後長らく適切な政権交代が行われてこなかったことにあるのではないかと思っている.民主党が政権を取った際には政権運営に不可欠なリアリズムが無かったのだという批判をよく目にする*2

例えば,橋爪大三郎は兵士として戦場へ赴くこと自体を否定しては国家が成り立たないとしている.そういう意見はリベラルでもそういないとは思うが,アレルギーのように切り分けるべき問題に対しても反応してしまう,ということはありそうだ.

 で、私はこう考えた。第一に、応召して兵士となり中国戦線に行くことは、公務を果たすということで、市民の義務である。ほかに選択の余地はない。戦略が誤っていたり、戦うべきでない戦争だったりしても、それは、個々人にはどうしようもないことで、別の問題だ。いったん始まった戦争に出向くのは、個人の義務。市民の義務である。市民として誇るべきことであっても、恥ずべきことではない。
 第二に、じゃあ、南京での犯罪や中国全土での犯罪は、そういう公務を果たしていることなのかどうか? 別レベルのことなんです。国際法に違反したり、人間の倫理道徳に反したりする行いがたくさんあった。それらは避けることができた。だから非難されても仕方ない。
 まとめると、後者に関してはどのように反省しても謝罪してもよいのだけれども、そのために、前者のレベルまで否定してしまってはいけないんです。それは、日本国の基礎を掘り崩すことになる。日本国もそのように、個人的な犠牲や負担をいとわずに公務につく市民個々人によって、支えられているわけだし、その点では、中華人民共和国も国家である限り、まったく同様に市民によって支えられているはずです。このルールは、相互に承認していいものだと思う。健全な論理だと思うから。
橋爪大三郎大澤真幸宮台真司『おどろきの中国』)

しかし,保守論壇で活躍した山本七平は日本人の「空気」を尊重する性質(これはエスニシティーの問題だ)が戦時中の無茶を招いたし,今後も日本が悲劇を繰り返すとすればこの性質によるだろうとしている.

山本が言うように,日本の戦争犯罪の原因が「ソブリン」ではなく「エスニシティー」にあり,そのようなエスニシティーが未だに温存されているとすれば,リベラルの「日本は変わっていない」批判も当然だと思う.
いやエスニシティー批判はいいけどソブリン批判はダメだよということなんだろうか.

「例えば国旗や国歌に関しては「日の丸や君が代には反対」という場合に「代案」を出すということは余りないわけです。」としているが,「日の丸」や「君が代」がエスニシティーでなくソブリンの問題だとするなら,その問題設定自体が問題ではないだろうか.日の丸や君が代に関してはあくまで広く国民に親しまれており日本の文化を反映したものであるから許されるのであって,それを正統性の根拠としたり正統性に利用するならまさに国体に他ならない,と思ってしまう.そういう思想へのリスペクトは自然に生まれてくるものでなくてはならん,というのは三島由紀夫が言ったことらしいが*3,まさにそういうことじゃないだろうか.
だから,全体としてリベラルが代案を示すべきときに示していないということはよくあるのかもしれないが,この件に限ってはリベラル側に代案を求めるのは,なんだかずれている気がする.

ソブリンが何かは良く分かっていないが,分からないなりに反応すると,確かに左派の主張には現実性の欠如がみられる.しかし,太平洋戦争の過ちが日本人の文化的性質によるものなら,それを批判することも当然なのではないか.
結局よく分からないままだらだら書いちゃった感じは否めない.

*1:sovereignの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

*2:民主党政権・失政の検証と教訓 | 日本政策研究センター

*3:未確認だがどっかで宮台真司がそう言っていたと思う。探せと言われたら探すかも