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回心誌

世の中わがんね

性的少数者の権利は、性犯罪を加害者目線で楽しんでも非難されない権利ではない

時間がないから思ったことを率直に書く。
あとで訂正するかも。



性的少数者としてのオタク(一部オタク)について。

まあ、性的少数者にコレといった定義があるのかはよく知らないが、多分オタクを性的少数者だと言っても差し支えないんじゃないだろうか。また、オタクが(性犯罪を扱ったものを含め)作品を自由に表現するのはあるべき権利だし、規制するべきじゃないと考えている。

ただし、以下の意見が「性犯罪を扱った創作物で性的欲求を満たす人たち」について適用されるのは反対だ。

見下した視線の対象となること、社会的に認められないことが生きづらさにつながるというのであれば、これは十分、生きづらい状況だろう。特に性的嗜好はデリケートな問題であり、知られれば名誉や交友関係、社会的地位やときには仕事まで失いかねない状況があるかもしれない。もしそうならこれは、差別に苦しんでいる、といってもいいのではないか。
新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク / 山口浩 / 経営学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2

つまり、性犯罪を扱った創作物で性的欲求を満たすことが社会的に認められないとしても、差別には当たらないと考えている。


まず、性犯罪を含め、犯罪を扱ったフィクションを楽しむからといって必ずしも犯罪に走るわけではないということは理解している。

しかし、それでも犯罪をテーマにしたフィクションを加害者目線で楽しむ人たちに対しては、冷たい目線が向けられて当然だと思うのだ。

例えば、ナチスの一員としてユダヤ人を追い掛け回して殺害するゲームや、在日コリアンを傷つけ殺すようなゲーム、テロリストとなって無辜の市民を殺害するゲームを楽しんでいると公言したら、冷たい目を向けられたり社会的信用を失うのは当然ではないだろうか。

他にも、実際に不謹慎ゲームとして批判されるものがあるようだ。そうした不謹慎ゲームを含め、加害者側の視点で犯罪を楽しむフィクションが法的に規制されることには反対だし、作成する自由があるべきだと思う。

しかし、実際に作成した場合に厳しい非難を浴びるのは当然だし、「性的少数者」であるというだけでそうした非難から免除されてはならない。そうしたフィクションを楽しんでいると公言することも同様だ。

なぜ批判されるのかについて正面から答えるのは難しいが、少なくとも一つの理由として、そうした犯罪を断固として許さないという社会的意思を示すためだと考えられる。また、犯罪には被害者がいて、社会としてそうした被害者に寄り添うべきでという考え方もできる。

いずれにせよ、道徳的な非難はあって当然なのだ。

なお、「絶歌」の際に話題になったサムの息子法のように、被害者に寄り添うという理由から表現規制を考えることもありうるが、前述の通り規制には反対だ。

「サムの息子法」は、特定の事件について加害者が被害者を傷つけて金儲けすることを防ぐものだ。架空の犯罪についてもその犯罪の被害にあっていれば確かに傷つくだろうが、フィクションにまで当てはめるとあまりにも規制範囲が大きく、かつ萎縮効果を含めると、あらゆる表現が封じられてしまう。




山口浩氏があの記事で、あのように書いた真意はイマイチわからない。

性的少数者の中にも様々な性的嗜好・指向があり、不当に排除するべきでないという意見には耳を傾けたい。(性的少数者問題との関係はやや判然としないが)表現規制が問題だという指摘にも賛成だ。

とはいえ、私自身はLGBTを含め「性的少数者」を支持する人たちが、同じ熱意で一部オタクの差別をなくすために奮闘する必要はないと思っている。

そもそも差別と闘う人の動機は人それぞれで、自分自身が当事者であることもあれば、その家族・友人であることもあろう。また、当事者であったとしても、深刻な差別を受けている人もそうでない人もいる。声をあげやすい環境にいる人もそうでない人もいる。

一般的にLGBT差別は一部オタクへの差別より深刻ではないと考えているし私もそう思うので、私自身はLGBT差別に注力したいと考えているが、LGBT差別よりオタク差別に真剣に取り組んでいる人たちのことを非難したりはしない。同様に、オタク差別に注力しないことを非難される謂れはない(もちろん、オタク差別に加担しているとみなされたら、非難されて当然かと思うが)。

しかし、「性犯罪を扱ったフィクションを加害者の視点で享受していることを表明した結果、見下した視線の対象となること、社会的に認められないことは不当な差別だ」という立場だとしたら賛成できない(山口氏がこの立場なのかはあの記事だけではわからないが)。それはある程度は当然ありうる正当な非難だし、そうであるなら差別ではないと言える。(犯罪者そのものとして扱うような、度を越した非難には反対だが)

(仮にそういう立場に立つ人たちがいるとして)そうした立場のオタク差別反対運動に賛同すること自体、性的少数者の反差別運動の後退を招くのではないだろうか。

ただし、尤もらしい批判が差別に援用される例は山のようにあるわけで、その点には注意が必要だとは感じている。




おまけで、オタク全般の差別について。

オタクは差別されているのか?

一応されていると思う。かつてほどでは無いにせよ、今でもオタクを蔑視する人たちはいる。特に地方には多いんじゃないだろうか。

で、そうした差別って、多くはコミュニケーションの問題と結びついていると思ってて、コミュニケーションに問題を抱えた人たち(以下俗な言い方だがコミュ障と呼ぶ)がオタクには多い、というイメージはオタク自身にすら浸透している。で、それこそがオタク差別、つまりオタクがキモい奴扱いされる主要な原因なんじゃなかろうか。

わたし自身はコミュ障が蔑視されるのはあんまり良い社会だとは思ってないけど、それは差別とは切り離して考えるべき問題だと思っている。

ちょっと話が逸れるけど、学校みたいな、コミュニケーションが強制されるような社会だと、コミュ障は必然的に蔑視されるしいじめの対象になったりする。この辺のことは内藤朝雄先生がご著書で書かれていたことだけど、大学みたいにクラスを自由に選ばせればイジメは無くなるらしい。

そんな感じで、コミュ障の蔑視については社会設計によってある程度緩和は可能だと思うが、それはやはり差別の問題とは話が違うのだ。

例えて言うなら、私が誰を友達にするかはもちろん私の自由で、コミュ障を友達にしないこともオタクを友達にしないこともできる。しかしそうは言っても、コミュ障を友達にしないのはある程度合理的だが、オタクにコミュ障が多いという理由でオタクを友達にしないのは(一定合理性があるし個人の自由の範囲内としても)厳密には差別的だと思う。

そんなわけで、オタクにコミュ障が多いからって、オタクみんながコミュ障であるかのように扱うのは差別的だと思うのだ。そういう扱い自体がオタク=コミュ障というイメージを必要以上に流布し強化するからだ。