回心誌

世の中わがんね

自分の人生を自分で選ぶとはどういうことか 戸田山和久『哲学入門』、岸見一郎『嫌われる勇気』

本職の哲学者による最新の哲学知見を紹介する本。

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

最新の哲学知見と言っても色々あろうけど、この本は、科学的な世界観(特に進化論)に根ざした上で、第一線で活躍する哲学者を紹介していくものだ。

主にデネットの議論を参照して、進化論(やその他科学)をベースに置くと目的や自由、道徳はどのように位置付けられるのかを説明していく。

デネットという哲学者は、科学をベースとして議論する最近の哲学ではメジャーな人物だ。山形浩生に和訳された本もある。けど、はっきり言って分厚いし、哲学者同士の議論も含まれているので難しい。

自由は進化する

自由は進化する

その点、戸田山の『哲学入門』は値段もお手ごろで、何よりちょくちょくジョークや軽い表現が入るので、読みやすい。

まず、書き出しはこんな感じ。

『哲学入門』って本を書いてて忙しいんだよ、と言ったら、妻は「あんたいつの間にそんな偉そうな本を書く身分になったのよ」と答えた。じつにその通り。確かに偉そうだ。どうせ偉そうなんだから、ついでに言ってしまおう。本書は、哲学の中核にみなさんをいきなり誘いこむことを目論んでいる。わっ。言ってしまった。そのために、本書では、ありそでなさそでやっぱりあるものの本性について考える。なんだそれ。やっぱりふざけてるな。そうではない。「ありそでなさそでやっぱりあるもの」こそ、哲学がずっと考え続けてきた中心主題だからだ。

まあ、そうは言っても「意識とはなんぞや?」みたいなことに興味がないと前半を読み進めるのは少し厳しいかもしれない。

だが我慢して読み進めて後半に進むと、俄然面白くなってくる。(苦手だったら前半は読み飛ばしても別にいいかもしれない)


後半の自由意志ってあるのか? 科学的に考えると決定論が正しそうな感じがするけど、決定論と自由意志とは両立できるのか?って部分からが面白い。

ややアクロバティックな論理で「両立可能だ」とするデネットの議論を紹介する。

この世で行為する現実のエージェントが望むに価する自由は、決定論と矛盾しない。自由なエージェントとは、まず第一に、理由によって行為する。つまり自分にとって良きものを求め避けるべきものを避けるという目的をもって行為する。そして第二に、行為に先立って行為を検討することのできる自己コントローラーである。そして第三に、経験に基づいて自分を再プログラムできる。これが持ちに価する自由の正体である。

ちなみにエージェントっていうのは、自分で考えて動く何かのこと。たとえば人間とか。

一方で、デネットの議論の欠点も指摘している。
デネットによれば、道徳的な責任や自由とは「その人が責任を負わせたり引き受けたりするゲーム」ってことになる。
これは結構説得力がある。「責任を負う」ことが良いこととされるのにも進化的な理由があるわけだが、こういう責任ゲームに参加することが進化に有利に働くから、と考えるのは筋が通ってる。

一方で、所詮ゲームに過ぎないという認識が広まってしまうのではないだろうか。デネット自身もそのことには自覚的なようだ。

デネットは、自分が自由だと信じることが、自由であることの必要条件だと言う。
もしそうだとしたら、自由はきわめてもろいものだ。

デネットは、自分の議論が自由は幻想だとする議論なのだと解釈されることをひどく嫌う。しかし、そのような解釈を許す余地はデネットの議論自体の中にいくらでもあるのではないだろうか。

自由は確かにもろい。今後の科学の進歩で、さらに危ういものになってしまう可能性は十分ありうる(既になってるのかも)
自分では自由意志で選んでるつもりでも、実際には遠隔操作されてるというような技術が今後可能になるかもしれない。逆らいがたい欲望に訴えるにはどんな宣伝広告が有効なのかは日夜研究されている、というのは常識だろう。

『哲学入門』ではさらに突き進んで、「じゃあ、自由意志が実はなかったとしたらどうなるだろうか?」というところまで考える。これがさらに面白い。

登場するのがペレブームという哲学者だ。彼は決定論が正しく、かつ自由意志との両立は不可能だという立場だ。

その議論を結論から言うと、自由意志がなくても(無い、という認識が広まっても)多分世の中はそれほど悪くはならない。むしろそのほうが良い社会なんじゃないの?とすら言ってしまう。

これにはびっくり。でも読み進めると、確かにそうかもしれない。

自由意志がなくなると、ある行為について道徳的に賞賛したり罰したりといった行為がなくなるだろうと書かれている。
そのような行為を行うことはあらかじめ決まっていたことだからだ。
でも、だからと言って、道徳的に良い・悪いといった判断がなくなるわけじゃない。

面白いと思ったのは、こういう賞罰を否定する考え方が意志の自由を強く肯定するアドラー心理学でも登場すること。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。

アドラーは、褒める・叱るといった行為を「縦の関係」として拒絶し、対等な関係を築くことが必要だと述べている。
そうすることで、自分自身の人生を生きることができるのだという。

現実問題として賞賛・叱責のない教育が可能なのかは実践を通して考えていくしかない。ただ、他者を上にも下にも見ず、対等に見るために賞罰はダメだ、というのはその通りかもしれない。

個人的には、アドラーの薦める「対等な関係」は自由意志を必要としない社会(=最新の科学的知見と矛盾しない社会)を考えることが可能だということを示唆しているように思えて興味深い。


アドラーの心理学は、自由意志を強く肯定し、決定論を否定する。
一方、科学は決定論を肯定しているように見える。
では、アドラーのような考え方は間違いなんだろうか。

もしかしたら、科学は自由意志を消し去ってしまうかもしれない。

しかし、人間の持つ能力や可能性は、科学によって否定されることはないだろう。

アドラーから学ぶべきなのは、そういう可能性なんじゃないだろうか。