回心誌

日々是回心

検察庁法改正について 2020/5/12暫定版

騒ぎになってるようで。

斜め読みでチラチラ見て、この辺の記事がわかりやすかったかな。

www3.nhk.or.jp

buzzap.jp


話の発端としては、黒川検事長の定年延長については、「違法ではないか」という指摘があったこと。


NHKの記事では、検察OBへ取材していて、検察側からどう見えてるのかが分かって面白かった。

検察としては、公正さを実現するため内閣からの独立性を保ちたい、という話。公正さのために、というのはもっともな話ではあるんだけど、とはいえ、自組織の権益を切り崩されたくないという思惑もあるんだろうね。そういう意味では、検察に聞いたらこういう答えが返ってくるだろうというのは予想できる話ではある。


NHKの記事では、人事についての「慣例」についても触れていて、知れて良かったと思う。

一方、検察庁法務省に属する行政機関でもあります。このため、一般の検事の任命権は法務大臣が、検事総長のほか全国に8か所ある高等検察庁のトップ検事長などの任命権は内閣が持っていますが、実際には検察側が作成し、総長の了承を得た人事案を大臣や内閣が追認することが「慣例」とされてきました。

以前から、安倍政権ではこれまでの人事慣行から外れることがあり、批判の的になることがある。特に注目されたのは内閣法制局長官の登用だろうか。

安倍政権の人事については批判意見が目立つが、政治主導として一定評価する声もある。何事もそうだけど、良い面と悪い面がある。

古賀茂明が、政治主導を進めるなら情報公開もやろうね、という趣旨のことを言っていて、そうよねーと思う。

dot.asahi.com

雑な解釈だけど、権力が分散していて互いに牽制し合うのであれば、権力が暴走する危険性は少ない。ただし、それぞれ自組織の権益強化を目的に動くので、政策が思うように進まない。逆に権力を集中させるほど政策を進めやすいが、反面暴走の危険性は高くなる。だから情報を公開してチェックするべき、ということかな。

まあそれはともかく、慣例に過ぎないとしても、独立性を保つために一定の寄与があったことも確かなのではないかと思うし、行政機関でありながら司法の一部を担う検察については、他の行政機関以上に特に独立性が求められることもNHKの特集記事で強調されていて、それはそれで納得のいく話だと思う。

独立性が揺らぐ、という意味で、黒川検事長の定年延長が問題だし、また、今回の検察庁法改正で検察幹部の定年延長が可能になったことも問題である、というのはそれなりに理解できる話だ。



Buzzapの記事は、検察庁法を擁護する意見に反論する形で整理しており、ちょっとテクニカルで細かい点もあるけど、わかりやすい。ただノイズが多い。

テクニカルな議論については大屋氏の意見も合わせて読んだ。

togetter.com



Buzzapでは、元々の改正案は63歳に達した人は検事長などの役職につけないようになっていたのが、2020年1月以降改正案の内容が変更されていたことを指摘している。

この辺をまとめると、こんな感じかな。

【元々(2019年以前)の改正案】
一般の検察官:定年を65歳に段階的に引き上げ。定年延長あり
検事長など要職者:役職定年63歳。役職の延長なし

【2020年1月以降の改正案】
一般の検察官:定年を65歳に段階的に引き上げ。定年延長あり
検事長など要職者:役職定年63歳。役職の延長あり


この役職定年に関して、大屋氏の見解は以下の通り。

④で、役職定年制の導入に伴い、すぐに管理職から外すとまずい人について例外的に留任や他の役職への転任を認める制度が導入されます。期間制限や理由に関して人事院規則で定めるという制約付き。まあ民間の役職定年制度でもこういう規定作るよねという話でしょう。

ちょっと疑問なのは、元々定年があるわけなので、役職定年を導入したから困るようなことってどれくらいあるんだろうか。

例えば、ある民間企業で、部長は45歳まで、という役職定年をあるとき急に導入したとする。この場合、これまでバリバリ働いてきた50歳の部長が急に退任させられることになるので、現場が混乱する。
こういうことを防ぐために、例外的な留任を認めましょう、というのは理解できる。

でも、元々63歳の定年があるわけで、役職者も63歳しかいなかったわけだ。そこで今回定年を65歳に伸ばして、一方で63歳の役職定年を導入したとして、上のような混乱は発生しない。

といいつつ、一般職員は65歳が定年で定年延長を認めつつ、63歳を役職定年として役職の延長を認めないのは、制度として使いにくい、分かりにくい、というのはありそうな気もする。



黒川検事長の件を置いておくとした場合、改正案(の2019年からの差分)だけを見ると、大したことじゃないような気もする。

個人的に気になっているのは、役職の延長がないと困るようなケースってそれほどあるんだろうか、という点。これについては上で書いた通り。

それと、役職の延長が可能になることで検察の独立性・公平性が損なわれるようなケースってどれくらいあるんだろうか、という点。役職定年に達してしまっても、定年が来るまで(つまり65歳まで)延長できる。これをつかって、検事長として内閣の役に立ったから、ご褒美に検事総長にしてあげる、ということが考えられるけど、こういうことがどれくらいできるのか。

Buzzapの別の記事で、検事総長はもっと延長できるよ、と書いてある。このロジックはちょっとまだよくわからん。ほんとかな。

buzzap.jp





疲れたのでこの辺で。

『猫のゆりかご』カート・ヴォネガット

ネタバレを含まないように面白く紹介するのは苦手だ。

昨日、カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』を読んだ。

「猫のゆりかご」(cat's cradle)というのは、「あやとり」のことらしい。


それはともかく、読もうと思ったきっかけは、「死」についての講義をまとめた書籍『「死」とは何か』に引用があったからだ。

一時期書店で平積みされていたので、見かけた方や、手にとって読まれた方も多いのではないだろうか。

『猫のゆりかご』には、ボコノンという架空の宗教が登場する。
『「死」とは何か』では、ボコノンの祈りが引用されている

この引用について、引用したいと思う。

『「死」とは何か』の筆者は、早死にしてしまう可能性があることについて、我々が取るべき態度はどのようなものだろうか?怒るべきだろうか、いや、悲しむべきだろうか、と議論し、

 それでは、悲しみはどうだろう? 私はあまりに早く死に過ぎる可能性が高いという事実をただ悲しむべきではないのか?
 じつのところ、この種の感情は理にかなっているように思える。この世は素晴らしい場所だ。この世界が提供しうる驚くべき物事を、私たちはもっと多く経験できたほうが良いだろう。したがって、自分がこれ以上それを経験できなくなるのだから私は悲しいのであり、その悲しみは適切なものだと思う。
 だが、そう考えた途端、思わずたちまち別の考えも浮かんでくる。もっと多く経験できないとはいえ、これほど多くを経験できたのはなんとも幸運だ。私の見るところでは、宇宙は膨大な数の原子が渦を巻き、さまざまな種類のものの群れを形作り、それがまた散らばったりばらばらになったりしている場所にすぎない。これらの原子の大半は、まったく生命を持つことがない。人格を持った人間になったり、恋に落ちたり、夕日を眺めたり、アイスクリームを食べたりする機会を得られない。私たちがこのような、選り抜きの幸福な存在であるというのは、この上ない幸福なのだ。

そうして、『猫のゆりかご』から、ボコノンの祈りを紹介する。

 神は泥を作った。
 神は寂しくなった。
 だから神は泥の一部に、「起き上がれ!」と命じた。
 「私の作ったもののいっさいを見よ!」と神は言った。「山、海、空、星を」
 そして私は、起き上がってあたりを見回した泥の一部だった。
 幸運な私、幸運な泥。
 泥の私は起き上がり、神がいかに素晴らしい働きをしたかを目にした。
 いいぞ、神様!
 神様、あなた以外の誰にもこんなことはできなかっただろう! 私にはどう見ても無理だった。
 あなたと比べれば、私など本当につまらないものだという気がする。
 ほんの少しばかりでも自分が重要だと感じるには、どれほど多くの泥が起き上がって周りを見回しさえしなかったかということを考えるしかない。
 私はこんなに多くを得たのであり、ほとんどの泥はろくに何も得なかった。
 この栄誉をありがとう!
 今や泥は再び横たわり、眠りに就く。
 泥にしてみれば、何と素晴らしい思い出を得たことか。
 他の種類の、なんと面白い、起き上がった泥に私は出会ったことか!
 私は目にしたもののいっさいをおおいに楽しんだ

そして、その節を次のように締めくくる

 正しい感情的反応は、恐れではなく、怒りでもなく、生きていられるという純然たる事実に対する感謝のように思える

この『猫のゆりかご』は1963年に出版されている。キューバ危機が1962年なので、冷戦の緊張が最も高まり、最悪の事態も覚悟しなければならないような社会情勢の中で書かれた。

しかし、この祈りに現れている、人生に対する肯定的な態度はどう理解すればいいのだろう。諦めのようなものだったのかもしれない、とも思う。


この架空の宗教「ボコノン」については、キリスト教の知識があればもっと楽しめるようなジョークが折り込まれているらしいけど、その辺りは全くわからなかった。




さて、『猫のゆりかご』は水の結晶(つまり氷)がSF的に重要な仕掛けになっている。結晶構造が異なると、同じ分子でも異なる性質を持つようになる、というのは理科で習った記憶がある(ダイヤモンドと黒鉛、みたいなね)。

この仕掛けの説明の中で、酒石酸エチレンジアミンの結晶の話が登場する。

 博士は、酒石酸エチレンジアミンの巨大結晶を作っていた工場の話をした。何かの製造にその結晶が役に立つのだという。ところがある日、作業員たちはその結晶に、工場側が望んでいた性質が失われているのに気づいた。分子が違ったかたちに積みあがり、組みあわさりはじめているのである。結晶化の起こっている液体に変化はない。だが、できてくる結晶は、こと産業面への応用に関するかぎり役立たずなのだ。
 どうしてこんなことになったのか、原因はわからない。だが理論上の犯人は明らかで、ブリード博士はそれを“種”と呼んだ。つまり好ましくない結晶パターンの微粒子である。その種が、神のみぞ知るところからはいりこみ、分子に新式の組みあわさりかた、結晶のしかた、凍りかたを教えたわけだ。

どうもこれは実際に起こった出来事のようで、いくつか別の書籍にも登場するエピソードのようだが、真偽はよくわからなかった。
例えば以下のブログでも紹介されている。

transact.seesaa.net

大元は『結晶の科学―物性の神秘をさぐる』で、『生命のニューサイエンス』にも引用されているそう。

なんとなく気にはなるね。


『猫のゆりかご』では、8種類しか知られていない氷の結晶構造について、研究の結果新たに9番目が発見された、という話になっている。この9番目の結晶構造は作中「アイス・ナイン」と呼ばれ、架空の宗教「ボコノン」と並んで本作品を特徴付ける名詞となっている。ちなみに、小説が書かれた当時は8種類しか知られていなかったが、現在はもっとたくさん見つかっているらしい。

academist-cf.com

実は、水の結晶構造は、全部で17種類が実際に作られ、純物質としては異常にたくさんの種類があります。氷の構造なんてとっくに調べつくされていると思われるかもしれませんが、今世紀に入ってから発見された氷が5種類もあり、今後も増えそうです。

ほええ。。。


小説やゲームなどで「アイス・ナイン」という単語が登場したら、あ、『猫のゆりかご』が元ネタか!とニヤリとできるね。